若松英輔『常世の花 石牟礼道子』

晴。
昨晩は南方熊楠を読んで寝た。むずかしい熊楠先生が少しづつ読めるようになってきたのは嬉しい。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十一番 K.331 で、ピアノは野平一郎(NML)。めずらしくこの曲が聴きたくなった。でも終楽章のトルコ行進曲じゃなくて、第一楽章だけれどね。第一楽章と第二楽章はこの曲の自分のイメージどおりの演奏。終楽章は速めのテンポだ。

モーツァルト:ピアノソナタ

モーツァルト:ピアノソナタ

ブラームスクラリネット・トリオ op.114 で、クラリネットはファビオ・ディ・カソラ、チェロはオフェリー・ガイヤール、ピアノはルイ・シュヴィッツゲーベル=ワン(NML)。
ブラームス : 室内楽作品集 (Brahms : Sonatas for cello and piano etc./Ophelie Gaillard, Louis Schwizgebel-Wang, Fabio Di Casola) [輸入盤]

ブラームス : 室内楽作品集 (Brahms : Sonatas for cello and piano etc./Ophelie Gaillard, Louis Schwizgebel-Wang, Fabio Di Casola) [輸入盤]

オネゲル交響曲第二番「弦楽のための交響曲」で、指揮はシャルル・デュトワNMLCD)。


我々の時代の正義は、学問的には一流、人間的には幼稚で、そのバックボーンは素朴な合理主義賛美である。「正義」たることを当然と思い、自負が強い。まさしくこれがこれからの支配的モデルになっていくことであろう。つまりは、西洋に一致していくのである。例は、二流だが典型として田中秀臣先生。若い人たちが目指すのはここであり、これは間違いなくこうなる。まあ、これでよいのであろう。自分に言うことはない。ただ、こんな簡単なことに気づくのにここまでかかったとは、まったくわたくしは明敏でない。問題があるとすれば、これが世界の最終的な回答ではないのに、そのように強力にふるまうことにある。「正義」の貫徹とともに、「人間」に必要であった「余分なよきもの」が洗い流されていって、跡形もなくなることになる。「人間」の死。徹底的な幼稚化。なるほど、ついに日本もこうなるのだな。これを止める手段はない。

しかし、自分だってどうしようもなく幼稚なのだ。何故あたらしい正義を非難できよう。これは「完全に正しい」のである。自分はアホであり、ただどうしようもなく時代遅れなのだ。

わたくしも基本的に合理主義者だが、西洋的な意味での第一原理がないので、じつは「なんちゃって合理主義者」である。合理主義にはすべての根拠となる「第一原理」が必要になるが、西洋にあってはそれをキリスト教が提供している。つまりは「神」。それはじつはいま現在でもそうなので、そうでないように見えてもそれは隠蔽されているのにすぎない。日本にはいまのところそれはないので、第一原理のところは奇妙なことになっている。しかし、このままでいけばどうしても第一原理は必要になるから、何らかの超越が導入されることになろう。それがどうなるかは確かに注目すべき点である。

例えば政治学などを論じていると、どうしてしばしば古代ギリシアまで遡行していってしまうのか。それは第一原理に苦慮するからである。例えばロックあたりだと根底は平気で「神」であるが、いまの学者はさすがにあからさまに「神」を持ち出すわけにはいかない。ゆえに、第一原理を求めてプラトンアリストテレスだとか、いやいやアテネ的民主主義だ民会だとか延々とやっている。日本人も西洋化しているので、学者は似たようなことになっているが、ユダヤ、キリスト、イスラム教的一神教なしにそうなっているところが苦しい。しかし思うが、日本人もこれからその三つのどれかへ行く人が増える筈である。それが論理的帰結なのだが、さて実際はどうなるでしょうね。

で、ここで変なことをいうが、日本の「オタク的感性」はそれに加えてどうなるのでしょうね。いまは全面的な「オタク的感性」の時代である。世界もその意味で「日本化」しつつある。ここに没頭していけないのが自分の完全なる限界であろう。あとは若い人に託すより他ない。じつは自分も昔はオタクだと思っていたのだが、もはや到底ついていけない。お願いします。まあ自分もやってはみるけれど。しかし、白痴的快楽主義が第一原理になるなら、「神」よりはいいのかも知れない。知らんけど。

あとは、「国家」か。ああもう面倒なので書かない。ちょっとだけ書いておくと、国家に対するのに「中枢」から見るのと「末端」から見るのと両方の見方がありますよね。ツイッターなどでは完全に「中枢」に集中して語られている。ちなみにわたしは「末端」の人である。ちなみに「末端」というのは地方公務員とか、そういう意味ではまったくない。具体的サービスとかでもない。どちらかというと「アナーキスト」的な意味であるが、アナーキストというわけでもない。ただ、「国家を信用しない」とか「非国民」とかいうのに近い。しかし、「反国家」でもない。国家の必要性は認識している。いわば矛盾的であろう。ゆえに学問化できない。


結局、あんまり深く追求すると問題がどっと湧出してきてしまうのだな。だから、じつはあまり深くは問わないことに大多数はしている。しかし、クリティカルな問題になってくると、いつまでも浅さだけではやっていけなくなる。そのときどうするのか。たいていは、体よく誤魔化すことになるのだが、それをプラグマティズムともいう。プラグマティズムは、よくも悪くも「大人の知恵」である。バカにしているのじゃありませんよ。念のため。

自分にあっては矛盾は必定である。それがいいというわけではないが、無知と愚かしさと思索力のなさでそうなっているのだ。残念である。

昼過ぎ、ミスタードーナツ イオンモール各務原店。家族のものも含め、持ち帰りでもいろいろ買う。
石牟礼道子さんの二冊の本と同時に図書館から借りてきた、若松英輔の『常世の花 石牟礼道子』を読む。ちょっと勘ちがいしていたが、本書は評伝の類ではなく、短文や石牟礼さんとの対談などを含めた、雑多な本であった。そのせいか、三十分ほどで読み終えた。若松は石牟礼さんに信頼され、彼女が亡くなる直前にもわざわざ会うことを求められているほどである。あいかわらず深くて読みやすい文章。個々の文章について感想を書いてもよいのだが、本書を読み終えて、これは若松か自分か、どちらかがニセモノなのだなと強く感じたことを記しておきたい。そして、結論的にいえば、ニセモノなのは自分の方であると思う。若松英輔の文章は偉人たちのオンパレードであり、自分のような霊性の低い人間のいる場所はない。いや、そのような考え方をするだけで既に碌な者ではなかろう。ただ、自分が言いたいのは、石牟礼さんの文章には我々凡人のいる場所もあるということだ。これからも石牟礼さんを読んでいきたい。それに、若松英輔も。

常世の花 石牟礼道子

常世の花 石牟礼道子

しかし、わたしは本というものを読んではいないのだな。読むというより、眺めているようなものである。だから能力不足でそれのできない、外国語は苦手だ。

しばしば小林秀雄はモノローグの人であるといわれる。自分ひとりでぶつぶつ言っているだけだということであろう。さて、わたくしもまたモノローグの人なのであろう。よくいわれる、「他者がいない」というヤツか。

1500ページもある『田村隆一全詩集』を読んでいるが、マジカッコいいぜ。まったく俺はクソだな。

神は
たった六日間で
ぼくらの世界を創ってしまったというのだから居心地の悪いのも無理はない

ハハ、こいつは笑うぜ。そのとおりさ。俺にキリキリのドライ・マティーニをくれよ。カッコつけるからさ。俺もよ。

おまけに気まぐれで神経質な神は
七日目にその手を休めてしまったのだから
かわりにぼくたちは働かなければならないのさ