経済合理性と地方

昨晩は灯りを点けたまま寝落ち、未明に目覚める。ふとんの中に iPad mini が転がっている。明るいまま眠るのは目覚めてどうもすっきりしない。灯りを消してそのままふとんの中にいるが、もう眠れない。半睡半醒、ぼんやりと意識はあるが、外部から情報の入ってこない状態で過ごす。六時過ぎ、起床。外はまだ暗い。いま、次第に明けつつあるところ。朝焼けの空が見える。(6:39)
晴。
 
昼から県営プール。明日のつもりだったが、いまひとつ心の調子がよくないので。一年でいちばん寒い時期だが、泳ぐのはわたしひとりではなかった。プールに入ってみたらほとんどお湯だった、でも、廊下や更衣室はいつものふるえる寒さ。外へ出るとおだやかに晴れていて、外気は10℃くらい。
 

クチナシの実。

カランコエ。出窓の中はいち早く春が来ている。
 
 
夜。
能登半島地震であえて問う、20年後に消滅する地域に多額の税金を投入すべきか - JBpress
山本一郎という「個人投資家、作家」なる人が、こんなことをいっている。
「必要なことは、先にも述べた通り、人口減少で地方社会・経済の衰退は誰かが何をしようとも押しとどめることはできないのだから、せめて勤労世帯も高齢者も、あるいは都市生活者も地方在住も共倒れにならないように、衰退をきちんとコントロールしながら最善の経済縮小・撤退戦を日本経済は政策的に図っていかなければならないということに他なりません。」
 東京人に典型的な発想である。どうでもいいが、山本はたぶん、地方に住んだことがないのではないか。まあ、このような発想に反論するつもりはない。正しい点もあるしな。わたしもまた、地方に必要ないほど過剰に立派なインフラはいらないと思う。しかし、「都市生活者も地方在住も共倒れにならないように」ってあるのは、ぼかしてはいるけれど、本音は「地方というお荷物に都会が迷惑を受けないように」ってところだろうが(だって、都市に金を投入するのが当たり前で、地方に金を投入できないって話だから)、都会の人間の発想として、そうなんだろうなというのは思う。
 また、こんな文章もある。
「子育て世帯は勤労世帯ですので、結果的に子育て環境とよりよい仕事を求めて都市部に出ていくのもまた当然の帰結です。」
 山本にいわせると、田舎ではよい子育てができないらしい。また、よい仕事もないらしい。確かに我々田舎の人間もそう思っているところがあって、若い世代は減り、それゆえに子供も減るし、その子供たちは都会へ出ていく。(しかし、農業や漁業は、いったい誰が担うのだろう。すべて輸入に頼るつもり?)
 たぶん都会人も田舎の人間も、「田舎に住むって、何の罰ゲーム?」っていう、ネットによくある発想に、染まっているのだろう。我々田舎の人間も、「薄められた東京」の人間と化しているからね。
 もう、我々日本人の精神の貧しさは、どうしようもないのかも知れないな。悲しくも腹立たしいことである。
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中井久夫さんの『清陰星雨』の続きを読む。「日本の心配」という文章の付記を読んでいて、日本人は「じり貧」に弱いというさりげない言葉にハッとさせられた。まさにいまそれではないか。
 中井さんを読んでいて、何気ない一言に深く感動して泣きそうになることがある。ほんと、わたしは感傷的だと思う。