種村季弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』 / 豊かな「カオス」の消滅

晴。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第八番 op.59-2 で、演奏はベルチャ弦楽四重奏団NML)。ベルチャQ にはベートーヴェン全集があるのだな。聴くのが楽しみ。

Beethoven: Complete String Qua

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シューベルト弦楽四重奏曲第十四番 D810 で、演奏はプラジャーク・クヮルテット(NML)。いわゆる「死と乙女」四重奏曲。重心の低い演奏だ。プラジャークQ は大衆的な人気があるわけではないが、40年以上のキャリアをもった大変な実力派カルテットである(2022年に解散してしまったが)。配信としてアーカイブ化され、聴かれるにふさわしい団体だ。

シューベルト木管九重奏曲 変ホ短調 D79 で、演奏はチェコ九重奏団(NML)。■シューベルトの幻想曲 ヘ短調 D940 で、ピアノはリカルド・カストロマリア・ジョアン・ピリスNML)。 
昼。
スクリャービンのピアノ・ソナタ第三番 op.23 で、ピアノはアナトール・ウゴルスキNML)。 

 
わたし一個人の思うことだが。
 ウクライナ戦争では〈「正義」のウクライナ+欧米〉 vs.〈「悪」のロシア枢軸〉という構図だったのが、今回の大規模なパレスチナ紛争が起きてからは、〈非人道的なまでにやりすぎなイスラエル+「ダブルスタンダード」の欧米諸国〉 vs.〈その「ダブルスタンダード」を非難する(ロシアを中心とした)和平志向の「グローバルサウス」〉という構図にシフトしていっているように見える。実際、ロシアは人道その他を理由にパレスチナを支持し、それは理性的に正しいようにすら見えてしまう。もちろん、「グローバルサウス」にはまた彼らの思惑があるのであり、純粋に人道的な観点からパレスチナが支持されているというのは、ナイーブにすぎるのではある。しかし、一方で、欧米諸国の「ダブルスタンダード」というのは根も葉もない主張ではなく、例えばアフリカ諸国などは、欧米諸国の利権を守ろうとする「偽善的な」経済・軍事的な介入によりかねてから散々な目にあってきた、いまもそうである、というのは一面の真実なのであり、主張に正当な理由がないとはいえないのだ。当たり前の話だが、欧米諸国の「正義」は、まずは自分たちだけの利益のためのそれなのであり、必ず普遍性がある、とはいえない。これも当たり前すぎるほど当たり前の話だが、戦争の当事者それぞれに、主張すべき「正義」はあり、それらは対立するのである。あらゆる戦争は必ず「正義」によっておこなわれる。
 何にせよ、これでとばっちりを食ったのはウクライナであり、欧米諸国の「ダブルスタンダード」が意識されてくると、何となく自分たちの「正義」にケチがついたような感じになり始めている。たぶん、それゆえであろう、ウクライナの一方で戦争しつつの、何となく奇妙なパレスチナ紛争和平への試みも、そういう文脈で見るべきものなのであろう。
 とかいうことも、一般の凡庸な日本人であるわたしなどには、じつはどうでもいいといえばどうでもいいのである。わたしなどは、ハマスによって殺されたイスラエル人の家族や、24時間ひっきりなしにイスラエルによる大規模な空爆を受けて、多くの人が殺され、街が瓦礫になったガザの BBC動画を観つつ、何ともいえない悲しい気持ちになっているだけである。そしてイスラエル軍による「地上侵攻」が始まり、さらに多くの人が無益に死ぬことも、ほぼ確定的であり、悲惨すぎるとしか言い様がない。
 
しかし、どうでもいいが、戦争の「正義」を正当化するために「民主主義」という言葉が唱えられているのを見ると、民主主義という概念よ、お前はそんなものか、などという理不尽な感想すら浮かんでくる。そもそも、いちばん「民主主義」にうるさい(らしい)アメリカという国が、世界でいちばん戦争をやっている国でもあるわけだが。わたしは、大量破壊兵器が隠されているというデマを基にして、イラクに戦争をしかけ、国をめちゃくちゃにしたアメリカの所業が忘れられない。さて、イギリスはのちにそれがデマであったことを認めたが、アメリカはいまだにそれを認めたり、謝罪したりもしていないし、その戦争に参加した日本も同じである。「正義」というのは、こうしたものなのだ。
 

 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ハニーディップブレンドコーヒー451円。
種村季弘『ビンゲンのヒルデガルトの世界』(1994)読了。『ヴォルプスヴェーデふたたび』(1980)も本書も、とてもおもしろかったし、種村さんの圧倒的な「遊びとしての学問」を堪能させられた。
 それにしても、自分でもいい飽きたが、我々、というよりわたしの(精神的)貧しさよ。結局ここへ繋がってしまう。ヒルデガルトの「ヴィジョン」とその自己解釈の記述を読んでいると、我々が現代の「イコノクラスト」の果てに住んでいることがよくわかる。浅田さんは、イメージは凡庸であるとか、いった筈だ、それが現代である。日本のアニメやマンガは、最後の生きた民衆的イメージ創造の試みかも知れないのだが、それもまた見下されていることに変わりがない。
 「ヴィジョン」がないということは、コスモロジーもまたないということだろうか。たぶんそうだろう、生の全体性が破壊された現代では、生きたコスモロジー(=世界の全体性)が生まれることはない。いや、コスモロジーもだが、やはり「真なるもの」が宿った、豊かなイメージだ。それが希求されるのだが、もはや性にかかわるイメージすら、破壊され、想像力が生命を失っている。貧しい象徴構造だけで、世界が覆われていく。
 てなことはこれまで散々書いてきたが、たぶんこれからもうんざりしつつ繰り返すことになるだろう。これは我々の生の根幹にかかわることだから。たとえ、それが99%(いや、100%?)虚しい試みであったとしても。
 さても、我々はこれから、共通的(あるいは「コスミック」な)無意識の深層から湧き上がってくるようなイメージを、はたしてもつことができるのだろうか? それとも、そのようなイメージは、本来的に無用であるのか? わたしにはわからない。ふと思ったが、ということは、我々はすべての揺籃たる、豊饒なカオスを、失い続けている、ということになるのではないか。自然という無限への通路を失い、人工的な想像力の世界だけに閉じて(データベース消費)、しかもすべてが啓蒙 enlighten され「名づけられている」、究極の精神的貧困に、我々はどんどん突き進んでいる。
 
って、何いってるんだかなー……。
 

 
夜。
たまゆら~hitotose~』第5話まで観る。
 
早寝。