曇。
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー393円。ゆたさんに勧められた、『YMO 1978-2043』を読み始める。著者はわたしとほぼ同世代で、10代に地方都市でYMOを「憧憬の眼差しで」見つめていたという。そりゃすばらしいアンテナだ、わたしは社会現象となっていたYMOに、当時(地方にいて)それほどの関心はなかった。むしろ、大学生のときに10年遅れで、YMOを聴いていたし、また、そのメンバーのソロアルバムを熱心に聴いていたものである。
本書の内容自体はだからわたしにもそれなりに興味深くないことはないのだが、それよりも、多少ちがうことを考えずにはいられなかった。YMOは、いわゆる「最先端」だった。最初はアンテナの感度のよい人だけが注目し、やがてメジャーになって時代を作り、そしてついには「古典」になるという。その、「最先端」というのが、わかりやすい時代だったと思う。いまだって、最先端というものはあるのかも知れない、例えば『鬼滅の刃』とか? しかし、それはわたしの思っていた最先端というものとは、どこかちがうもののようにも思える。いや、わたしは『鬼滅の刃』はまったく知らないので何もいえないのだが、むしろ「流行」にすぎないという気が、おっさんのわたしにはしてしまうのだけれど、どうなのだろうか。
例えば、わたしはアニメの SAO が好きなのだけれど、別に SAO に限らず、いま流行っているコンテンツを享受していると、脳内の快楽物質の取扱いに非常に長けている感じがする。「快楽物質の取扱い技術」の徹底した洗練。疲れていようが何であろうが、いやでも脳に食い込んでくるというか。で、どんどん消費し、それを無限に続けていく。わたしはもはやゲームはやらないのだけれど、あれもそんな感じだ。いまや、一生次から次へとゲームだけやって飽きない、というか、もはやそれくらいしかおもしろいものがない、とか。いや、たぶん子育てとかは、それよりも真に「おもしろい」そして「やりがいがある」かも知れないが、(きわめて残念なことに)わたしはやったことがないので何も知らない。そして、現在更新されている快楽コンテンツが、いまいうところの「最先端」ということなのであろう。これは、マンガでも小説でも映画でも音楽でも同じことだ。
わたしは必ずしもそれを disるわけじゃない。人間、やることがなくなったら、快楽を求めるしかないというのは、よく理解できることだ。それで一生満足なら、何がいけないのか、というのは反駁しにくい。
つまるところ、我々は何のために生きているのか。仕事に耐えながら、それ以外では一生、洗練された快楽にうち震え続けるため? そして、死とは?
「知」というものも、最先端のあり方は変わった。「記号のたわむれ」ということはポストモダン哲学がよく言っていたことで、ポストモダン哲学は「記号のたわむれ」に対してアンビバレントな態度であった、肯定否定両面あったと思うが、いずれにせよ、現在の「知」(という言い方はもうされないが)にあって、ポストモダン哲学も驚いてしまうほど、「記号のたわむれ」しかなくなっている。ポストモダンには遊戯的気分があったのだが、現在は、マジメにやってもそうなってしまうのだ。浅田さんのいうところの「退屈な秀才たち」というのはそれである。もはや、自分の頭のよさを見せつけるくらいしか、やることがない。マジメに現在的課題を解決していくのも、期せずしてそうなってしまうのだ。何をしても、たんなる記号の操作に収斂する。そして、それで満足する以外ない。それで何がいけなかろう、と。
まあ、「最先端」などというものは、わたしにはもはや大した意味をもってないような気もするが、若い人たちにはそうでもないだろうね。でも、わたしだって、現在というものは気になる。たぶん、わたしがかつて最先端=現在と思っていたのが、そうでなくなったということかも知れない。

- 作者:吉村 栄一
- 発売日: 2021/03/12
- メディア: 単行本
(しかし…、そんなことが何だというのか、ともいいたくなる。わたしに興味があるのは、まずは自分のことだ。わたしは(精神的に)貧しいし、それがいいことだとは思わない。そして、記号や幻想をたんに享受し、蓄え、巧みに操作してみせることが、豊かなことだとは思えなくなった。それに尽きているのかも知れない。)
世界(≠記号の集積)の裂け目こそがリアルなのだ。それは、無限に存在する筈なのである。
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自分のいっていることはまあ基本的にいつも同じだな。でも、大事なことだから、同じことを繰り返すしかない。
さて、他者はリアルでなければならない筈だ。本当にそうなっているのか?
他者に関する「一般理論」のようなものはない。他者は記号ではないからだ。自分の全存在と関わっている。いわゆる「コミュニケーション技術」などというのは、その縮減にすぎない。
同じ場を共有するということ。それが、存在を共有することであればよいのだが。たんにそれが「手段」になると、つらい。イバリたいとか、自分を認めさせたいとか、何かのために利用したいとか。
あー、こんなこと書いても仕方がないよね。もっと下らんことを!
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河合隼雄先生の『宗教と科学の接点』の続き。第三章「死について」、第四章「意識について」を読んだ。ここでも思い切ったことが書かれている。わたしは試行錯誤しながら慎重にノロノロやっているが、已むを得ない。とにかく、ひとりよがりの傲慢な思い込みが怖い。ブログは、バランスを取る手段になっている。それにしても、本書に引かれた井筒先生の厳しい言葉にはショックを受けたな。
第五章「自然について」。「わが国におけるあいまいな宗教的対象としての『自然』は既に死んだのではないか」(p.153)。わたしもまったくそう思う。それを日本人が自覚することが、自然のより深い理解をもたらす、と。
また、仏教はアメリカで生きているとさえ感じたともどこかで述べられていた。別の本でも、日本人はそのうち仏教を西洋から学ぶようになるのではないかとも仰っていた。アメリカ流マインドフルネス仏教みたいなのはともかく、いまの日本の知識人(だけではないが)の仏教理解の底の浅さは、河合先生の危惧が現実になったのを思わざるを得ない。頭で理解しているだけ。
河合隼雄『宗教と科学の接点』読了。第六章「心理療法について」。先生が独善から免れているのは、心理療法の実践があるがゆえにだということがよくわかる。先生も、それが自分の宗教的「修行」に当たると述べられているとおりだ。我々もまた、自分の人生そのものが修行である。わたしも、いかに貧しい生であっても、決してそこから離れてはいけない。それを忘れれば、簡単に独善に陥るだろう。まったく、こんな平凡で貧しい生でも、解決すべき問題は毎日出てくる。その苦痛こそが大切なのだ。まだまだ未熟。

- 作者:河合 隼雄
- 発売日: 2021/04/19
- メディア: 文庫