東浩紀さんを再読、デラシネされた幻想たちとポストモダン的データベース

曇。
中学か高校の先生をしている夢を見る。授業をしていたのだが、家庭科と保健を併せたようなへんな教科を教えていて、何なのだろうな。また、生徒がグループに分かれたように座っていて、わたしはその間を歩きながら講義をしていたのも謎だった。
 
昼食に茗荷(ミョウガ)のみそ汁。茗荷は今年の初物である。
風強し。
 
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。生フレンチクルーラーブレンドコーヒー462円。
水野忠夫さんの『ロシア・アヴァンギャルド』(ちくま学芸文庫2023、元本1985)を読み始める。何というか、高校生か、せめて20代前半のうちに読んでおくべきな本だな。無知は怖い。いまさらだが、亀山郁夫先生の本も読まないと。
 しかし、アヴァンギャルドは既にほぼ死に、その成果も高度資本主義の中で簡単に消費されてしまう。シクロフスキイの「異化(オストラネーニエ)」の手法も、いまや資本主義的差異を産出するために使われるだけだ。でも、わたしがそう「消費」というだけで、これまた既にその言葉も紋切り型に堕してしまっていないか? 「消費」という言葉さえ、消費されてしまっている。あまり考えずに、ネガティブなコノテーションを身にまとっている。ほんと、いきづまりのどんづまり。ま、しようがないんだけどね、無限後退してニヒリスティックになってもまたしようがない。じゃあ、ロシア・アヴァンギャルドはもう新鮮さを失っているか? わたしは知らないが、たぶん、そんなことはない、本書を160ページ読んで、そのことは感じる。

物質的だけでなく、精神的な消費ということもある。どれだけ力を込めて制作しても、ふーんと流されるだけ。誰も二度とそこに立ち還ることはない。蓮實重彦は「読めば読めてしまう」という堕落について語っていたと記憶しているが、それは確かにそうだ。しかし、それは仕方のないことでもある。わからない奴はどれだけしてもわからないのではあるが、人間、そんなもんだ。それこそ、わたしに何がわかっているというのか。
 
外気34℃で、これくらいだとかなり涼しく感じられる。外へ出たら、ひどいにわか雨が降ったらしく、地面が濡れていた。さらに気温低下。
 カルコス。中公新書新刊の『J・S・ミル』は結構話題になっている。講談社現代新書新刊の『ハイデガーの哲学』は500ページ近くあるぶ厚い本。いまさらそんな入門書ばかり読んでどうすんの、って気もするけれど、いまの人が哲学者たちをどう読んでいるのか、気になるので。それから、濱口先生の新書新刊はここにもあらず。仕方がないのでネットでポチっとやるか。
 
 
夜。
東浩紀さんの『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』(2001)をひさしぶりに再読した。一時間くらいでサクッと読めたが、いや、これは感嘆しましたねー。中身も興味深かったが(わたしもアニメを意識的に観始めたからわかるところが増えた)、とっても優秀で、何よりもほんとすごい才能じゃないか! いまだからわかる。実際に東さんは、サブカルチャーを語る仕方をガラリと換えてしまったのであり、本書を始め、一連の論考の影響力は圧倒的だった。東さんが道を切り開いた延長線上に、いまのネットに充満する「サブカル論考」が存在するといっていい。20年以上前に書かれた本書は、まさにひとつの起爆剤になったのだと思う。
 その東さん、いまは何をやっておられるかとんと存じ上げないが、もはやサブカルに言及されることはあまりないのではないか。インターネット上で暴走する、硬直化した日本の言説に、ひどく暗い認識をもたれているのは知っているが。言葉が擦り切れて、ボロボロになった時代。 
続編の『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007)も読み返した。とりあえず第一章の理論篇を読み終えたが、第二章の作品論はちょっと受け付けず読めなかった。第一章は、前作『動物化するポストモダン』に比べると、複雑でめっちゃむずかしい。前作も大塚英志が参照され、そこから深い影響を受けていたが、本作も大塚の「まんが・アニメ的リアリズム」なるものを受け入れ、それに「ゲーム的リアリズム」なるものを対置している。そのあたりの議論はとても複雑・煩瑣で抽象的で、わたしごときには「ほんとかなー」と思われてしまう。キャラクター=メタ物語的=ゲーム的、っていうのは、何重もの抽象が必要で、わかりにくい。また、「まんが・アニメ」はコンテンツであり、コンテンツは作り手から享受者に一方的に押し付けられるものであるが、ゲームはゲーム世界との相互作用であり、コミュニケーションである、とか。インターネットは後者であるとされ、肯定されるが、いまから見るとじつに素朴に見える。インターネット性善説とでもいうか。動物化するポストモダン』の議論は、シンプルでいまでもかなり妥当だと思う。データベース消費、とかね。わたしが意図的に観てきたアニメは、基本的に『ゲーム的リアリズムの誕生』以降のコンテンツである。わたしがそれらに感じた驚きは、ひとつはまるで快楽中枢を直接操作していくような、おそろしいまでの「刺激の強さ」であった。ま、これはわたしがナイーブな田舎者のおっさんであるから、そう感じた、感じている、のかも知れないが。これも、「動物化」といわれてわからないことはない。現在が「ポストモダン的状況」というのも、いまでも該当すると思う(ここでいう「ポストモダン」は、東さんが強調するように特定の時代思潮である「ポストモダニズム」とはちがう)。モダンが壊れかかっているが、救いは用意されていない、という意味でだけれども。
 
 
幻想に幻想を重ねていく。かつて我々は「自然」に接続しており、無限の「自然」から想像力を汲み上げてきた。その到達点が「モダン」である。しかし、我々はいつしか「自然」から切れてしまい、「自然」由来の想像力が根を失い、幻想と化す。それが大量に蓄積され、いまや我々がそこから人工的な想像力を汲み上げていくところのものが、東さんのいうポストモダン的「データベース」だ。