ポストモダン思想と「知恵」 / 原武史『最終列車』

曇。
 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏はボロディン四重奏団(NMLMP3 DL)。■西村朗の「星の鏡」「三つの幻影」「法悦の鐘」で、ピアノはルーカス・ユイスマン(NMLMP3 DL)。
 
いわゆるフランス現代思想ポストモダン思想というのは、(いろいろありはするけれど)厳密な哲学というよりは、むしろ「知恵」の一形態である。というか、厳密な哲学に限界が見えていて、それに対処するための「知恵」の提供だった。そこのところが見えなくなりすぎている。それを「厳密な哲学」化しようとした仕事はエピゴーネンにおいてたくさんあり、いまはそちらの方が「ポストモダン哲学」として一般に理解されているが、それはじつは態度としては、ポストモダン思想を切り開いていった開拓者たちからは、真逆なそれといってもいい。ここで敢て跳躍すれば、そこから哲学・思想の世界は現在において反動化し、あまり意味のないことに膨大な精力を使っているように、わたしなんかには見える、んだが、ちがう?
 東さんが、現代思想は詩のようなものといっていたのは、このあたりのことをよくわかっていての発言だった。やはり、さすがだと思う。
 
浅田彰・講演(1/2)「ポストモダン文化の現在―伝統・近代・脱近代?」 - YouTube
浅田彰・講演(2/2)「ポストモダン文化の現在―伝統・近代・脱近代?」 - YouTube
(後記。午後、夕方まで長時間、リンク先の講演を聴いていたのだが、見事な啓蒙だけれども、自分としてはあまり刺激を受けることがなかった。やっぱり、従来の土台、わたしはそれを広義の「モダン」と呼びたいのだが、それが崩壊してきていると思う。どこまでいっても、新しさのない反復にすぎなくて、精神がどんよりしてくる感じ。「大きな物語」という言葉とか、ちょっともういいよ、飽きたよ、って。文化事象をまとめて抽象的なメタレヴェルへ、って知的操作が、限界にきて無意味化している。まあ、学生向けの一種の講義だから、意図的に凡庸なことをやってるのだろうけれど。)
 

 
晴れる。スーパー。肉屋。
肉屋へ行くとき、後ろを走っていたバカが煽ってくる。あんまりいい気持ちでないね。煽り運転、最悪。
帰宅して乾麺を買い忘れたことに気づき、あわててもう一度スーパーへ。まぬけ。
 
 
シロクマ先生がブログで「AI時代の精神医療を想像する」という文章を書いている。別にわたしはそれほど興味があるわけではないが、最後で、AI が我々の代わりにかしこい選択をしてくれる時代がくる、自由の放棄だみたいな話になっている。でも、それだとじつは既に多くの人に「自由」はなくて、選択はかしこい専門家たちがやっているのであり、AI はそれをさらに加速させるだけなのではないかとわたしは思う。
 「自由」だか何だか知らないが、我々は「生きる」というのはどういうことなのか、言葉があたえられすぎていて、却って「生きる」ということがわからなくなっている。言葉はリアルをパージするのだ。「生きる」ということが、言葉という薄膜の向こう側にあって、到達することができない。まあ何にせよ、我々は生まれ、苦しみ、たまに喜ばしいこともあって、死んでいく、それだけのことはかわらない。「AI」も「自由」も「選択」も言葉としては大事ではあるが、ほんと、基本的には、それだけのことだ。
 
 
図書館から借りてきた、原武史『最終列車』(2021)読了。承前。原さんのどことなくペシミスティックな文章と思想性(?)は、鉄道という存在がもたらしたものかも知れない。わたしは最近車ばかりだが、車には鉄道のような「思想性」はあまりないように思える。車の運転は、どこか瞑想に近い感じがする。それは鉄道のもたらす社会性、思想性よりは、もっと個人的なものだ。

 
 
夜。
河出文庫新刊の吉田秀和『バッハ』を読み始める。わたしがいかに壊れてしまったか、痛感する。吉田さんの見事な文章が美文に思え、ちょっとつらい。かつては、そんな風には感じなかった。