及川琢英『関東軍』

晴。
深夜一時頃に目覚める。しばらく『関東軍』の続きを読み、また朝まで眠る。
夢なのか半分うとうとしていたのか、高校数学の「xはaに限りなく近づく」ではダメで、大学レヴェルのいわゆる「ε-δ論法」でないといけない理由はなんだろう、などということを頭の中でぼんやりと転がしていた。何でそんなことを思ったのか、わけがわからない。なお、「ε-δ論法」は解析学において極限や収束を扱う厳密な方法であるが、最近の大学では(むずかしいので)教えないところも少なくないという。
 
今朝の朝日新聞のテレビ欄コラム「試写室」が、『呪術廻戦』の2期についてだった。「試写室」でも深夜アニメを話題にする時代になったのだなあ、ってたまたま見かけただけで、以前にも深夜アニメ、採り上げられたことがあったか知らないが。ちなみにわたしは『呪術廻戦』、原作マンガを途中まで読んだだけで、アニメは観ていない。
 
昼。
Web上で更新し忘れて延滞になっていたので、図書館へ返却に行く。新しい本は何も借りず。
黄色い小さな蝶(モンキチョウではない)が入り口扉とガラス窓の間に入り込んでバタバタしていたのだが、わたしが帰るときにちょうどうまく隙間から出られて外へ飛び出られたので、よかった。
 
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー440円。
大江健三郎同時代ゲーム』の続き。(つまらないとは逆の、わたしが至らないゆえの)苦痛をガマンしながら、一時間かけてようやく「第四の手紙」まで読み終える。この綺想、どこから来るのかわからない異様な想像力は、まさに驚嘆すべきであり、前も書いたが、若いうちに読むべきだった。確かにいまでも大江健三郎はよく評価されているけれど、それでも、どれくらい「驚かれて」いるだろうか。わたしごときをもってしては、とてもすらすら読めず、苦痛を覚えながら息も絶え絶えに読むほかないが、さて、先の長くはないであろうおっさんがそこまでして読むとか、バカじゃないの?って思われそうだな。まあ、実際バカなんだが。
 
帰りにカルコスへ寄る。ちくま学芸文庫先月新刊の水野忠夫ロシア・アヴァンギャルド』(元本1985)を購入。
 

 
夜。
及川琢英『関東軍』読了。読み終えてみて、ド素人による空想がいろいろ頭をよぎった。著者には申し訳ないが、どうでもいい空想を綴ろう。
 近代日本は最終的に中国、ソ連アメリカと敵対し、理性的にというよりは、国民全体が無意識に突き動かされるように、破滅していった。それはいまから見れば勝てるはずのない、愚かとしかいいようのないものであったが、近代日本が大国主義を選択した以上、もしかしたら避けられなかったのかも知れない。というのは、わたしの空想にすぎないのであるが。石原莞爾は、日本人の無意識を具体化してみせたのだといえるかも、ゆえに、いまでも石原莞爾の信奉者は絶えないのだろう。
 敗戦後、日本は経済的な復活を遂げたが、それも平成の「失われた30年」(40年にもなろうとしている)という経済敗戦を経験する。わたしは最近、吉本さんが「日米構造協議」(1989-1990)のアメリカによる日本分析の的確さに衝撃を受けている文章を読んだが、ここでもアメリカは徹底的に日本を研究し、日本を打ち負かすロジックを実装していた。リービ英雄さんの描写を思い出すが*1アメリカは(いまの中国と同じ様に)日本を(経済的)敵国と認定し、見事にそれを潰したかのように、わたしには見える。そして、経済敗戦のあとの、IT敗戦と学術の没落という、第三の敗戦。現在の日本も、また無意識に或る(破滅の)方向へ走り続けているかのようだ。
 が、以上のようなことはわたしには荷が重すぎるし、せいぜい素人の床屋政談にすぎないのである。それに、わたしは国家や経済にそれほど興味はない。あるのは、我々民衆の精神的レヴェルについてだ。しかし、それについてはここで語ることはしない。というか、そんなこと、わたしなどがいって何の意味があるか。
 本書の感想としては、似つかわしくないものになったな。まあこれも、本書のインパクトといっていいのだと思う。とか書いたが、学術的な良書であると、大急ぎでつけ加えておこう。

大江健三郎から村上春樹へ。武満さんと細野さん。吉本さんと中沢さん。彼らの切り拓く地平。
 
 
NHK+ で「NHK MUSIC SPECIAL 坂本龍一 芸術は長く、人生は短し」を観る。

*1:当時のアメリカ人一般の少なからずは、日本が世界の経済的覇権を取るものと本気で実感(あるいは恐怖、あきらめ)していた。