こともなし

曇。のち雨。
音楽を聴く。■バッハ:ヴァイオリン・ソナタ第四番BWV1017(ラインハルト・ゲーベル、ムジカ・アンティクヮ・ケルン、参照)。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第十九番K.459(ピリス、アルミン・ジョルダン参照)。ジョルダンの指揮が今ひとつ。■ブラームス:二つの歌曲op.91(アンドレア・ヒルジャン=フレデリック・ヌーブルジェ他、参照)。歌曲もいいな。もっと聴きたいね。

Rubyディレクトリ名操作などを自動化したり。手作業で名前を付け替えるとか、面倒だった。面倒なことはプログラムにやらせるのだ。
デリダを読む。
このところ PC の前に座っている時間が多いけれど、また本ももっと読みたくなってきた。
2015年夏_3
梶谷懐を読む。

政府を批判するマスコミには、経団連(だったっけ)に言って広告収入を絶たせてしまえとか、自民党の若手の議員らが公然と発言しているが、今の自民党内の雰囲気がよく現れていると思う。マスコミが政府批判をするなんていうのは当り前のことで、民主主義の根幹であり、また従来の自民党はそうした中で「粛々と」「やるべきことをやってきた」から長らく政権政党であったわけだが、自民党も堕ちたものだ。どっかのバカな小説家が「沖縄の二紙は潰すしかない」云々と発言したなど、よく本音が出ていると思う。この中二以下の浅はかさこそ、今どきだと云うものだ。沖縄の人たちはしっかりと銘記したであろう。これこそが本土人たちの発想なのだ。これが、尖閣問題など比較にならない、恐ろしい事態の幕開きになったところで、自分はちっとも驚かない。国民も政治家も、自業自得というものである。
 自分は今の自民党のやろうとしていることより、その態度の方がよほど日本の将来に影響を与えると思う。政治家として責任をもつなんてのは当り前のことである。これは偏見かも知れないが、安倍首相には(きつい言い方をすれば)国民蔑視の感情があると思う。政治家としての責任ということを思うあまり、「国民に理解はされないが、国のために必要なことをやる首相」というヒロイズムに陥っているように見える(きっと、おじいさんと自分を同一視しているところもあるだろう)。さて、そんなに日本人はバカな国民なのか、どうか。
 さて、あまり関係ないように見えるかも知れないが、書いておく。政治において「正しい」というのはもちろん大切なことである。ところで、「正しい」とされずに始められる戦争などないのである。例えばアメリカは、あのイラク戦争を未だに間違った戦争だとはしていない。たぶん、日本はそういう国になっていきつつあるのだと思う。それは「正しい」ことなのだろうが、自分にような東洋人には必ずしも納得のいくものではないというのが本音だ。非合理主義の極みだろうか。僕は、関係性の重視こそが「東洋的」思考法だと思っている。もっとも、それゆえに、それすらが絶対的な真実ではあり得ないけれども。第一原理からの演繹を求めるには、もしそれを選ぶのならば、まだまだ徹底的な論理的整合性の追求が足りなさすぎるだろう。それをするなら、人間は全知に近づかねばならない。「西洋的」思考法とは、そこまでいくものである。もしやるなら、こんなままではお話にならない。俗な言い方になるが、万巻の哲学書思想書その他に目を通し、理解し、議論できる力をもった人間が、もっと必要になるのだ。まだまだその点では日本は「お子様の国」でしかない。まあ自分も大したことがないしね。