テッサ・モーリス‐スズキ『過去は死なない』

晴。
音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番K.465(ターリヒQ、参照)。
中華「龍園」にて昼食。炒飯+焼き餃子。

テッサ・モーリス‐スズキ『過去は死なない』読了。副題「メディア・記憶・歴史」。歴史というものに関する考察であり、特にいわゆる「戦争犯罪」に関する歴史をどう捉えるかについて、具体例を挙げて考えられている。著者は日本の近代史の専門家であるらしく、必然的に論題は日本とアジア諸国が中心となっている(もちろん、欧米の話も多い)。日本に関して云えば、一方で「従軍慰安婦」(性的奴隷)や原爆の投下、小林よしのりのマンガなど、かなり議論が紛糾するであろう題材を、積極的に取り上げているのが目立つ。また、メディアと歴史の問題でも、歴史小説から写真、映画、マンガから(インターネット上の)デジタル・コンテンツまで、目配りは広い。よく考えぬかれた論考なので、中身は実際にお読み頂きたい。
 少しだけ個人的な考えを述べれば、まず、歴史というものはどこかに客観的にあるというよりは、本質的にはまさしく個人個人の中にしかないということである。豊かな歴史観であろうが貧しい歴史観であろうが、誰も避けては通れない、それは我々の個人的な問題なのだ。一方で、それと矛盾するかのようだが、ある程度客観的な歴史も存在するということである。メディアの問題は、その両者の間にある。例えば、明治維新を一次資料によって把握している素人はいない。恐らく、日本人の明治維新観は、多くが司馬遼太郎などの歴史小説、または大河ドラマや映画などによって創られているのではないか。逆に云えば、歴史小説も読まなければ大河ドラマも見ない、見るのは You Tubeニコニコ動画ばかりという人は、歴史というものに触れる機会が非常に少なくなってしまいかねない。これは実話であるが、優秀な中学三年生が、歴史の授業でやるまで日本とアメリカが戦争したことを知らなかったりする。これは別にめずらしい例ではない。
 歴史はすべて偽史であるというのは、逆説的な表現ではあるが、これは一応正しい。完全に客観的な歴史はある意味では考えられず、すべての歴史記述には何らかのバイアスが掛からないことはあり得ない。しかしまた、これも矛盾しているようだが、ある程度の客観性、歴史的真実がないわけでもないのだ。実際、歴史の素人でも、ある一冊の本を読んで、ある種の事実を知るだけで、歴史に対する態度が変ったりすることはよくある(ちょっと読んでおいただけでちがうということだ)。それはやはり、「事実性」によるものである。例えば「従軍慰安婦」(性的奴隷)問題において、すべての歴史家の意見が一致することはむずかしくても、やはり「従軍慰安婦」(性的奴隷)が存在していたことは、「客観的に」見て確実だろう。そこはしっかり把握すべきところで、そこから例えば「だからどうした、そんなものはどこの国でもやっている」という正当化の方向には、行くべきではないと自分は思うし、そう言ったからと云って愛国者でないとも思わない。それこそ、そこのところは「理論化」できないだろうかという欲求はあるけれど。そう、歴史には「正当化」というものに強く引きつけられる傾向があるが、この「正当化」というのは厄介だ。これをやろうとすると、イデオロギーの罠に嵌ってしまうことがほぼ避けられないのである。自分はむしろ、まだ「判断停止」の方がマシだと思う。これはいわゆる現象学的還元に他ならない。
 どうもいらぬことを書きすぎた。まあこれだけ考えさせられただけでも、本書を読んだ意義はあったようなものだ。

過去は死なない――メディア・記憶・歴史 (岩波現代文庫)

過去は死なない――メディア・記憶・歴史 (岩波現代文庫)