こともなし

晴。暑い。
 
庭のムシトリナデシコに、アゲハチョウが熱心に来ている。小さなひとつひとつの花の蜜を、丁寧に吸っている。

ムシトリナデシコ。本当はアゲハが蜜を吸っているところを撮りたかったが、うまくいかなかった。ムシトリナデシコは、野生化したものがどこかから勝手に庭にやってきたらしい。
 
シューマンのピアノ協奏曲(ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)の第一楽章を聴く。
 
 
どうでもいい戯れ言なのだが、NHK の国際ニュースを観ていたりすると、日本の政治家も一般人も、「自国の国益」ってものを第一に考える、という発想に乏しいんじゃないかなということをぼんやりと思う。別に、それがいいとか悪いとかいう気はなくて、ただ、政治家がそういう発想に乏しい国というのはたいへんめずらしくて(他のどの国も、もっとエゴサントリックだ)、日本はゆるいなー、のんびりしてるなーって感じる。他ならぬわたしもたぶんそういう人で、いまなら例えば「台湾有事」ってのを前提に物ごとを考えるのが「自国の国益」ってものを重視するということだと思うのだが、わたしも正直いって、そんなことはほんのちょっとしか気にしていない。例えば政治家では安倍元首相とか、知識人では内田樹とかのあたりが「自国の国益」にうるさい日本人の典型だと思うが、わたしはそういう人たちが、何かあんまり好きではないようだ。(ついでにいうと、社会科学系の学者は「自国の国益」に敏感にならざるを得ないと思うが、そういう学者はわたしは好んで読むというわけでない。)ただ、日本の政治家って、何を考えているんだろうな、ってのはちょっと思う。ほんとゆるくて、のんびりしていて、たぶんあんまり何も考えていないのかもなって、思わないでもない。そういう日本はたぶんいい国だけれど、戦争やったらひどいことになると思う。
 

 
昼。
県図書館。外気35℃、何でこんなに暑いんだ。まだ五月ですよ。
継続したの以外では、安藤礼二の『縄文論』、東さんの『新対話篇』を借りる。東さんの対談集はたぶん持っているし(家のどこかにある)、既読だが、図書館の書架にあったので。安藤礼二はわたしと同世代の批評家で、なかなかの実力者であり、かつてよく読んだが、いつ頃からか嫌になって読まなくなってしまった。どうでもいいが若松英輔とかも、そういう意味で(わたしには)まったく似たような書き手。でもまあ、図書館にあれば読む。あとは、スーザン・ソンタグの『土星の徴しの下に』。これも既読本。スーザン・ソンタグ、最近はフェミストに叩かれるくらいで、すっかりその名を見かけなくなった。「土星」というのはメランコリー(憂鬱)を指し、いまの自分の気分に合っているし、それに、「現代における知性」というもののヒントにならないかな、と思って借りてみた。
 それから、たまたま書架に磯崎純一という人の『龍彦親王航海記』があったので、これも借りる。結構ぶ厚い本で、わたしはかつて澁澤龍彦をよく読んだので、楽しみ。この本の近くには、巖谷國士さんの澁澤論集が揃っていて、確か全五冊くらいあって壮観だった。
 
それこそ「現代における知性」なんて言葉を頭の中で転がしながら帰ってくる。まあわたしならそこに、「孤独な田舎者による」という言葉を付け加えなければならない。これは別に卑下しているつもりはあまりなくて、人的ネットワークに繋がった都会的知性をわたしが目指したって、そもそもムリだし意味がないことを痛感するからである。
 
 
夜。
土星の徴しの下に』を読み始める。ソンタグにあっては「知」はまだアカデミズムの外にあり得る。一種の「素人仕事」ということに、いまではなろう。「知」はアカデミズムに囲い込まれてしまった。そして若い人たちも、それを是としているように見える。
 
わたしだって理性を重んじることに吝かではないが、しかし、理性理性ってうるさい人たちの(文章の)背後に、単純で貧しい感情が透けて見えるの、何とかならないものかな。悲しすぎる。
 
明日から小旅行に行ってきます。