晴。
NML で音楽を聴く。■シューベルトの「さすらい人幻想曲」 D760 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテル(NML)。
■バッハのピアノ協奏曲イ長調 BWV1055 で、ピアノと指揮はダヴィド・フレイ、ブレーメン・ドイツ・カンマーフィルハーモニー管弦楽団(NML、CD)。よい。■ブラームスのクラリネット・ソナタ第一番 op.120-1 で、クラリネットはマイケル・コリンズ、ピアノはミハイル・プレトニョフ(NML)。これ、かなりいい演奏なのではないか。昼からスーパー。年末の抽選会があって、三等箱ティッシュと、五等ペットボトルのお茶が当たった。あとは一枚10円のお買い物券。
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。シュガーレイズド+ブレンドコーヒー396円。『武満徹著作集3』の『遠い呼び声の彼方へ』を読み終える。ここに収められた文章の多くはいわゆる「バブル期」に書かれたものではないかと思うが(きちんと確かめていない)、文化状況に対する武満さんの認識は、極めて辛辣な文章として結実している。いや、武満さんは昔から厳しい、わたしなど比較にもならないクソマジメさのあらわれで、その辛辣さはこのときに始まったものではなかった。しかし、まだ以前には、日本にも(世界にも)それなりに「人」がいたがゆえに、その辛辣さはさほど表に出さずにも済んだのであろうか。武満さんはその行く先を残念ながら見ることはかなわなかったが、本書以降、武満さんの危惧は正確なものであったことが証明された。
本書にはたぶん武満さんとしては唯一、その文章に中沢さんの(肯定的な)引用があるものがあって、わたしとしてはちょっと意外であった。武満さんは中沢さんとはまったくちがう。前者は日本であり、後者はアジア。前者はメジャーであり、後者はマイナー。二人には恐らく活字化されていない対談があることをわたしは知っているが、中沢さんの単行本には武満さんへの言及はない。武満さんは、日本の或る若い作曲家の作品にある、ナルシシズムに対して批判的であるところに、中沢さんを援用しているのであるが――まあ、何というほどのことではないにせよ。
しかしそれにしても、である。武満さんの音楽はいまでもますます世界的に演奏されているが、その文章に真剣に取り組んで、成果を挙げたものをわたしは知らない。もとより管見ではある。この文章たちは武満さんの「本業」ではないが、それにもかかわらず重要な価値をもつことをわたしは信じて疑わない。ここに書かれているものは、他の誰もいっていない、独自の洞察に満ちている。その音楽は、「言葉」と分かちがたく結び付いている。例えば、武満さんの作曲過程に、「曲名」の決定は本質的に重要なことだ。世界の本来の姿は渾沌としており、言葉の一撃がカオス(武満さんの場合は、滔々たる「音の河」)を一転して具現化するきっかけになるのである。
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アイザイア・バーリン『反啓蒙思想』読了。承前。いやー、バーリン、おもしろすぎるだろう。本書を読むかぎり、バーリンの立ち位置というものがわたしにはよくわからない。快作(ないし怪作)である「ジョセフ・ド・メストルとファシズムの起源」でも、バーリンはド・メ(ー)ストルを肯定しているのか、否定しているのか、わたしにはさっぱりわからないのである。と思っていたら、本書解説には、バーリンに対して「価値多元論」とレッテルが貼られてあって、うまいこというもんだなというか、まあこういうしかないよねというか、正直ちょっと鼻白んだ。まあ、学問的なことはわたしにはどうでもいいので、バーリンの「エンタメ的」というか、硬い記述の奥のみずみずしさというか、そんなところに感じ入った。学者であれば、こういう勝手な読み方はできないことであろう。
バーリンの記述には時々意外な人名が出てきて、ベルクソン(本訳書では昔なつかしい「ベルグソン」の表記が採用されている)なんかにはオッと思わせられる。ここでも、バーリンはベルクソンを肯定しているのか、否定しているのか、よくわからない感じだ。ベルクソンというのは扱うのにむずかしい人で、いまだとドゥルーズ関連で無視するわけにはいかないから、学者なら慎重な手付きで取り扱う思想家である。だって、ベルクソンを肯定すると、非合理主義者とか、頭の悪い人とか見做されかねないからね。バーリンはずばりとベルクソンを扱うので、そこいらがおもしろい。
バーリン、もう少し読んでみたいな。さすがに県図書館にはあるのではないか。
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夜。
『宇宙よりも遠い場所』第4話まで観る。
SAO のフェアリィ・ダンス編を一気に見返す。少しだけ観るつもりが、エンタメとしてのあまりのおもしろさから止まらなくなった。藍井エイルのOP「INNOCENCE」も好きだ。結構アニメに耐性がついてきたと思うんだけど、それでも SAO は強烈だな…。