ヘイト、深沢七郎的単純さ

曇。

しかし、何で日本でもこんなにヘイトが猖獗を極めるようになってしまったのかな。もはや末期的とでもいいたくなるような有り様であるが、わたしには根本的に何がヘイトを駆動しているか、よくわからないというしかない。やはりインターネットだろうか。日本のヘイトは中国・韓国が嫌いで、サヨク・リベラルが嫌いで、「優遇されるマイノリティ(障害者など)」が嫌いで、いまだと BLM、大坂なおみ選手が嫌いなわけだが、わたしには正直言って、その憎悪の心情を想像してみる、それに入り込んでいくことがむずかしいのを感じる。あまりにも単純すぎて、とっかかりがないのだ。ヘイトの感情というのは、たぶん個人的なものではない。感情の一種の増幅・強化・固定装置としてのメディア(本も含む)やインターネットがないと、こんなことにはならない気がする。わたしのいつも言っている、はてブとかフェイスブックの「いいね!」、ツイッターリツイートYahoo!のコメント欄などが典型的だ。なんつっても、もはやどうしようもない感じもする。人間の叡智、死したり。

ヘイトの人たちが「閉じている」のだけはまちがいない。関係性が乏しいのだ。関係性が乏しいというのは、まあつまりは、心が貧しいということである。いいたくないけれど。
結局さ、くだらんことでムカつきすぎ。そんなことどうでもいいだろって言ってくれる人が少なすぎるんだ。もっとエーカゲンに、テキトーに生きてほしいよ、まったく。そうしないと、心が開けないよ。

午前中、甥っ子をの勉強を見る。
昼食は甥っ子と博多ラーメン「まっしぐら」にて。

ゆたさんへのリプライを書いてから思ったけれど、自分はどんな人間でも受け入れられる、そんなすごい人じゃないね。あまりにも他人の迷惑を考えない、限度を超えた自分勝手な人間というのはやはり稀に居るものだ。そういう人間は、どうしようもない。願わくば、そういう人間とはあまり出会いたくないものである。これは理念の敗北というよりは、わたしの器の小ささだなと思う。


深沢七郎的単純さみたいなのを考えていて。吉本さんはもちろん複雑なことをたくさん考えていた人なわけだけれど、その種の単純さへの志向みたいなのは常にあったよね。というか、知性は最終的にそういう場所へ着地しないといけないということをよく書かれていて(吉本さんは「非知」といっていた)、ああ、そういうことなのかなと思う。概念的な肌理の粗い思考は解体して、なめらかで複雑な思考(これこそが単純なのである)へ帰っていくというか。吉本さんは、知性とはそういうものであるべきだと見做していた、それがわたしの読解だ。これまた、西洋的な知性とはいかにちがうものであろうか。ただ、文章というものはリニアな仕方で、(粗い)概念を使って書くしかない。なめらかで複雑なものは、「文体」で表わすしかない。そういうと、例えば小林秀雄的になるかな。小林は、「文章」「文体」という言葉に複雑な意味を込めた人だった。彼は、文章に「生命」が宿ると考えていたといって、わたしはよいと思う。

ようやくふつうに涼しくなってきたので、夕方に散歩。これからまた散歩できると思うとうれしい。いつもながら、平凡写真ですが。

彼岸花があって「あっ」と思った。そうだ、お彼岸だった。

これもまだ花は咲いていないけれど彼岸花彼岸花は宿根で、毎年同じ場所に出る。

ジュズダマハトムギの区別がつかないわたくし。


たぶん、カワラヒワなのだけれど、何だか毛がボサボサ(笑)。

馬頭観音さん。地元の人がきちんと花をお供えしてある。


ひさしぶりに少し長く歩いただけで、ちょっとしんどかった。体がなまっているなあ。

夕飯は豚肉とナスの炒めもの、ピーマンとツナを炊いたもの。食い過ぎた。