玄侑宗久『なりゆきを生きる』 / ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』

深夜起床。あまり寝ていられなかった。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第二番 BWV1004 で、ヴァイオリンは豊嶋泰嗣(NMLCD)。■バッハの四つのデュエット BWV802 - 805 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。よい。■バッハのフランス組曲第一番 BWV812 で、ハープはクリスティアーナ・パッセリーニ(NML)。これは典雅だ。わたしは編曲ものは滅多に聴かないのだが、フランス組曲をハープで演奏するというのにちょっと惹かれたので聴いてみた。なかなかにいい。

Bach: French Suites for Harp

Bach: French Suites for Harp

  • 発売日: 2020/05/29
  • メディア: MP3 ダウンロード
■野平一郎の演劇的組歌曲「悲歌集」で、メゾ・ソプラノは林美智子、テノールは望月哲也、フルートは佐久間由美子、ギターは福田進一NML)。スカルラッティソナタ K.202、モーツァルトのピアノ・ソナタ第三番 K.281 で、ピアノは楊麗貞(NML)。
楊 麗貞 ショパン4つのバラード

楊 麗貞 ショパン4つのバラード

 
明け方、二時間ほど眠る。

晴。午前中、スーパー。
昼食に焼きそばを作る。そして昼寝。


図書館から借りてきた、玄侑宗久『なりゆきを生きる』読了。エッセイ集。特に感想は記さないが、わたしは玄侑さんが好きだなあ。ここでは、軽くて柔軟(ってのは決めつけかな)。禅僧はこうでないとね、って感じもする。

なりゆきを生きる --「うゐの奥山」つづら折れ (単行本)

なりゆきを生きる --「うゐの奥山」つづら折れ (単行本)

  • 作者:宗久, 玄侑
  • 発売日: 2020/05/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
本書を読んで、わたしも子供のとき、雨を土に返してやることを考えていたと思い出した。何でそんなことを考えていたものか、よく覚えていないけれども。


『いかにして民主主義は失われていくのか』の続き。結局わたしは「民主主義」、あるいはさらに古典的な政治思想というものすらよくわかっていないのだよな。わたしが「政治」というと、まあ選挙の投票には行くが、デモも参加したことがないし、「市民 citizen」としての討議・熟議なんてものに参加したこともないし、あと、テレビを見て「安倍首相クソ」とか言っているのは、政治なのか? 我ながら、「民主主義的実践」が貧しすぎるよね。それでむずかしい政治哲学、政治思想の議論を読んでも、何かピンとこないのは当然かも知れない。むずかしい本を読んで啓蒙されようとしても、理解するための現実的基盤がない。まったく、精神が貧しい。

図書館から借りてきた、ウェンディ・ブラウン『いかにして民主主義は失われていくのか』読了。なーんかなあ。著者は「シチズンシップ」や「リベラルアーツ(教養)」とか連呼しているが、エリートなんですねとしか言いようがない。わたしは低級な人間なので、シチズンシップを意識したこともないし、自分がリベラルアーツの持ち主であるとも思わない。そんなものがなければ民主主義が維持できないとすれば、民主主義が存在しなくなって当然であるようにわたしには思える。それにしても、ネットでもたぶん紙の本でも、「リベラルアーツ」とか何とかうるさい知識人、エリートは掃いて捨てるほどいるが、どの口がいうのかという感じである。わたしの見立てでは、いま日本の知識人でリベラルアーツの持ち主だといって許される人は、数人しかおりませんよ。あとは皆失格だ、というのはさてもどうでもいい冗談だが、半分は本気である。そんなものです。
 いっておくけれど、わたしは民主主義が不可能といっているわけではない。まあ、上でも書いたが、何が民主主義かよく知らないけれども。しかし、かつては誰でもリベラルアーツを持っていたから民主主義が息づいていたとも、またいまは新自由主義リベラルアーツを殺したから民主主義が死んでいるとも、全然思わない。著者は結局エリートの言いたいことを言っているだけで、何かカン違いをしている気がする。著者の言っていることは、つまるところ新自由主義がバカ(=リベラルアーツを欠いた人間)を増やしたから、民主主義がダメになったという論法である。これはエリートに遍在している「真理」であるかも知れないが、わたしとしては、バカで悪かったなと応えるより他ない。いや、クズですね、マジで、わたしは。

本書でわたしが救いたいと思うのは、ホモ・エコノミクスによる「ベストプラクティス」が政治・社会を徹底的に経済化するという視点である。「ベストプラクティス」というのは、つまるところは「理性」「合理性」といっていいだろう。それらはまた最終的に、分断・格差をももたらす。大問題なのは、かかる「理性」「合理性」を捨てるわけにはいかないし、それは正しくもないということだ。この問題は、「合理性」で解決するのはきわめてむずかしい、つまり、合理的に考え実装しても、それはまた新たな分断や格差を生んでしまうからだ。それに気づかない限り、袋小路はどうしようもないのである。