クセノフォン『ソクラテスの思い出』

雨。
 
午前中、うとうと。
 
昼からごろごろ。
随分苦しみましたにょ。
 
電気屋さん来る。食器洗浄機の「故障」、じつはいつも「スピーディー」を選択して洗っていて、それがよくなかったとのこと。これからは基本的に「標準」ってのでやるように云われた。故障ってわけではなかったのね。
 
 
クセノフォン(クセノポン)『ソクラテスの思い出』読了。解説を読むと、プラトンとクセノフォンのいずれが歴史的なソクラテスの実像(周知のとおり、ソクラテスは著作を残していない)を描いているかということが、学者の間では問題になっているそうであるが、まあ、一般人にはそんなことはどうでもいいよね。プラトンでもそうだが、クセノフォンでも、ソクラテスはほんとに理屈っぽい。議論で相手を追い詰めて屈服させる、つまりは論破する。わたしなどは、理性の暴力を感じる。それをやりすぎて恨まれ、ソクラテスは不当に訴えられて死刑になるわけであるが、それがまた後世の評価を高くした。人によっては、ソクラテスは嫌いという人だっていると思う、というか、わたしなんかは正直そういう感じを受ける。あまりにもソクラテスは立派すぎ、さらにはその高潔さを他人に強要してくるのだ。しかし、そんなことをいう自分が、なさけない人間だというのも確かで、忸怩たるものもある。クセノフォンに描かれるソクラテス、わたしにはどう受け取ったらよいか、迷わされる。

プラトンの「対話篇」におけるソクラテス像は、またこれとはちがう。本書解説にも、プラトンにおけるソクラテスは知の探求者(フィロソフォス=哲学者)であるのに対し、クセノフォンにおいては、ソクラテスは「知者」(ソフォス)で、既に答えを知っており、相手を導く手段として「対話」を行っているとある。わたしなどには、何となくクセノフォンの方が実像に近く、プラトンは創作に思えてしまうのだが、現在の研究では逆として捉えられているようだ。
 
クセノフォンの著作は、かつて『アナバシス』を岩波文庫で読んだ。これはおもしろい本で、「タラッサ!」(海だ)のセリフは有名。『キュロスの教育』は(古典)ギリシャ語を学ぶときに最初に読む本としてよく使われるが、わたしはまだ読んだことがない。翻訳は京都大学学術出版会の「西洋古典叢書」で読めるようだ。
 
 
中村哲『ダラエ・ヌールへの道』を読み始める。副題「アフガン難民とともに」。ここには正視すべき真実がある。その真実は、極めて多くの偽善を明らかにせずには済まない。古風なサムライが語っている。