中村哲『ダラエ・ヌールへの道』

晴。
 
NML で音楽を聴く。■シューベルトの三つのピアノ曲 D946 で、ピアノはヴァルター・ギーゼキングNML)。淡々と弾いているのが却っていいな。第二楽章中間部は泣かされた。
 
午前中、ごろごろぼーっとする。
 

 
梶谷先生のブログより。

米国で刊行後、インターネットを通じて日本でも大きな話題を呼んでいる専門書がある。マサチューセッツ工科大学教授で著名なマクロ経済学者、オリビエ・ブランシャールが著したFiscal Policy Under Low Interest Ratesがそれだ。
 この書物は、そのタイトルが示すように、金利、それも国債の利回りなどの「安全利子率」が非常に低い水準で推移し、時には成長率、さらには実質利子率の実効下限effective lower bound, ELB) を下回るような経済―長期停滞に陥った経済―においては、政府は公債の発行を増加させ、積極的な財政政策を行うことで需要を下支えするべきだ、と主張したのだ。
 ブランシャールの著作が日本で広く話題となった一つの理由は、黒田日銀総裁の下で行われた大胆な金融緩和に代表されるアベノミクスに肯定的な評価を与えているからだろう。この間、よく知られているように日本の公債比率は上昇し、総債務はGDPの250%以上に達しているが、ブランシャールによればこの赤字拡大は非常に弱い民間需要を補完するために必要なものであった。そして彼は、黒田総裁の下での持続的な金融緩和が、長期の安全金利を低く抑えることを通じ、財政の持続可能性を下支えしたことを高く評価したのである。

何とか県図書館にでも入らないかと思うが、ムリかも知れないな。ま、わたしが読んでわかるかどうかは疑問だが。
 
 
昼過ぎ、90分ほど散歩。高田橋の桜を見にいってきた。日差しはかなり強く、もう暑いくらい。

ウチの桜。充分きれいだ。

ベニシジミ


矢車草。






黄色いのは菜の花。
以下、高田橋の桜。もう散り始めていた。







名鉄高田橋駅。






もう、花粉症で目がめちゃくちゃかゆい。ほんとはあと30分くらい歩こうと思っていたのだが、わたしは二時間歩けないね。これでも結構しんどかった。
 
 
図書館から借りてきた、中村哲『ダラエ・ヌールへの道』(1993)読了。副題「アフガン難民とともに」。目頭を押さえながら読んだ。自然から切り離された生活を送る我々日本人にも、人ごとでない話が並んでいる。本当に「人間らしい暮らし」とは何か、我々にはもうほとんどわからなくなっている。

混乱の元は、近代型の消費生活が、常に「科学的な合理主義」を背景にしている事である。例えば、断食の習慣は、アフガニスタンペシャワールではかなり厳格に遵守されているのに、西欧的な文物の浸透するラホールやカラチなどの都会では崩れかけてきている。冷徹な資本の論理が都市の現金生活を貫き、精神生活を支配する。伝統的な神聖な空間は人間の意識の中から消えうせ、歯止めを失った消費欲が無制限に自己増殖する。かくして、「中立的な科学」に裏打ちされた拝金主義が、神の座に取って代わる。これが「近代生活」の新しい局面である。(「VII 流竄録」、p.267)

現在では、この中村さんの言葉を理解することは、多くの人にとってむずかしいだろう。我々は、これをアップデートし、腐った我々の心にも届く言葉を作り出さねばならない。
 我々は高度資本主義の中で、資本が煽り立てる欲望を引き受けながら、それらを少しずつゆっくりと解体していくという技術を身に着けねばならない。そうしなければ、われわれにはたぶん未来がない。

 

 
夜。
「推せ」ない「萌え」ない愛子さま(1)|愛のある批評|西村 紗知|webちくま(1/4)
西村紗知はわたしにはかなりむずかしい。でも、ひさしぶりに敢てその難解を読み解いてみたくなるような、力のある批評家の登場である。この人には、マウンティングの欲望をほとんど感じない。そこのところが稀有だ。かしこい人もかしこくない人も、女も男も、意識的にあるいは無意識的に、マウンティングしたくなるってのが現代なのに。わたしだって(?)、なかなかその欲望を解体し切れないのだから、西村はほんと大したものだと思う。
 
 
アクセル・ワールド』第12話まで観る。やっぱりこれ、おもしろいな。