映画「ブラック・レイン」を観る

曇。
夢。何千階あるかわからない超高層マンションの、わたしは七階くらいまでしか行くことができない。エレベーターで上昇する。ガムをクチャクチャやっているような、ニヤついたヤンキーたちと一緒だ。そのうちエレベーターは何故か水平になり、都市交通システムのように街の上を進んでいく。行き先はどうやら、離れたところにある別のマンションのようだ。
 
 
本日付の朝日新聞朝刊の「オピニオン&フォーラム」に、諸富徹氏(京都大学大学院経済学研究科教授)へのインタビューが掲載されていた。題は「資本主義 日本の落日」というもので、日本の経済的な没落を、産業の「非物質化」(=デジタル化)と「脱炭素問題」への企業レヴェルでの取り組みの完全な立ち遅れから説明している。わたしが2021年極私的回顧(2021.12.30)で「『IT敗戦』に続き、日本の『気候変動問題敗戦』もほぼ確信してしまった。その転落する底は見えない」と直感で書いたことが、学問的に立証されつつあるのだなという思いである。まあわたしの予感などはどうでもいいことだが、日本人がこれから、いつになったらこれに気づけるのか、お得意の「国民的空気」にできるか、ってゆーことだろう。果たしてそんな日が来るのだろうか、わからないという他ない。
 
わたしは既に、「反緊縮」策さえ取れば、日本の復活まちがいなしなんてゆーことは信じられなくなっている。日本の袋小路は、小手先の金融政策で済むような、そんな簡単なものではなさそうだ。いや、それでも、「反緊縮」策くらいは当然だとは思いますよ。
 
しかし日本は経済的に没落しても、世界的に見ればそれ以外の「役割」があるのかも知れない。世界文化における、超幼稚で下らない感覚的部分を引き受ける、とか。必ずしも悪い意味でなく、いまの日本文化ほど下らなく、幼稚なものは、世界的にないだろう。こんなことは、日本人にしかできないのかも知れない。
 

 
スーパー。五倍ポイントの日だった。
 
昼寝。
昼寝から目覚めるとき、「自分もいつか死ぬのだな」と不思議によく思う。思うというか、そういう気分になるというか。どうして昼寝でなのかはわからない。
 
県図書館。「新潮」誌の中沢さんの連載、「精神の考古学」第6回を読む。ソファに腰掛けて、ゆっくりじっくりと。遥かな高みの話だが、わたしごときにも何もわからないことはない。ヒントになる言葉はたくさんある。
 帰り、運転しながら取りとめもなく考える。「考える」というか、運転に集中しているがゆえに、却って自由に想念がひらめく。我々凡庸な人間のこと。また、この現代社会で生きれば、どうしても「記号」と「暴力」の束縛を受けざるを得ず、心の純粋状態を維持し続けることはむずかしい。いや、それがゆえに中沢さんの記述が貴重であり、宝の泉なのだ。それにしても、現代社会における心は、完全に頽落の状態にある、それをどうしたものか。わたしなどにはまるで手のつけようもない問題だが、あきらめるわけにもいかない。
 
「心を遊ばせる」という表現があるが…。心を心のおもむくままにさせるということ。しかし、これでの達成は、gift のある人にしか、むずかしい、らしい。
 

 
夜。
録画しておいた、映画「ブラック・レイン」(1989)を観る。リドリー・スコットには特に興味がなく、ただ松田優作が出ているというだけで観た。確か松田優作最後の作品で、本人も癌だということはわかって演じていた筈だと思う。エンタメだが、大した話ではないし、マイケル・ダグラスはよく知らないが、正直この程度のものかと思った。映画自体はリドリー・スコットのカラーなのだろうが、オリエンタリズム全開で、ステロタイプそのものの日本、胸糞悪い、最低の作品だとある意味ではいえるだろう。健さんの役も、かなりひどい。わたしとしては、松田優作が動いているというだけで何ともいえない気持ちになったが。