伊藤比呂美訳著『たどたどしく声に出して読む 歎異抄』 / 高瀬正仁『評伝 岡潔』「花の章」

晴。
昨晩は吉本さんを読んで寝た。
 
昼から肉屋。肉屋で肉を買うのは当たり前。
マックスバリュ。サラダ油を買う。
 
金柑の実を食う。
 
 
図書館から借りてきた、伊藤比呂美訳著『たどたどしく声に出して読む 歎異抄』読了。老母から廻してもらった。親鸞が悲しくて仕方がない。つまりは人間が。自分が。

悪性(わるいたち)は
なおされぬ
心は
蛇蝎(へびやさそり)のまんまである
善いことをしたって
毒にしかならぬ
修行とは
虚(うつろ)であり
仮(うそ)である
  親鸞和讃 伊藤比呂美

 
『評伝 岡潔』「花の章」の続き。ボロボロ泣きながら読む。確かに岡潔は精神がおかしくなるくらい数学に打ち込み、その高みを理解できる人間は日本にはひとりもいなかったわけだが、それでも岡を親身になって助ける人は、少数ながら確実にいた(多くにはただの厄介者だった)。そして、世界には岡の数学を曇りなく高く評価できる超一流数学者たち(ヴェイユカルタンジーゲルなど)がいたのだ。彼らが日本を訪れた際、田舎に隠棲する変人の下へわざわざ会いに行くのを見て、日本の数学者たちがいかに驚いたことか。西洋人に高く評価されて初めて、岡潔は日本でも評価されたのである。いまでも事情はあまり変わっていないと、著者はいう。わたしが感動するのは、かつてあった何かの純粋さである。我々には、よくも悪くも、そういう浮世離れした純粋さはなかなかないし、それを理解する者も極少なくなったような気がする。
 
夜。
高瀬正仁『評伝 岡潔』「花の章」読了。全二冊を読み終えた。文庫版あとがきに拠ると、本書以降に「虹の章」(全二冊)と、『岡潔 多変数解析関数論の造形 西欧近代の数学への挑戦』を書かれたらしい。両方とも是非読みたいが、たぶん後者はわたしには歯が立たないだろう。

 
 
それにしても、明治以降これまで、どうして日本はこれほど多くの一流数学者を輩出したのか、不思議である。これからはどうなるのであろうか。