こともなし

日曜日。曇。

昨日のエントリに加筆。

老母を二回目のコロナワクチン接種に送っていく。
老父と丸亀製麺にて昼食。ここは混雑していても、流れ作業のように客がどんどん回転していくな。


とらドラ!』(2008)ちょっと見返して、ネット検索しながらいろいろ反芻していた。ネット上には結構知的な「論考」がそれなりにあって、それだけ魅力のある作品なんだよねと再確認した。しかし、そこまで知的に「考察」するっていうのも、どうなんだろうね。例えば最後のところの、竜児と大河の家族との向き合い方を知的に称賛したものを読んだが(母性の束縛からの脱却)、それをいうなら、たぶん二人も新しい家族を作るのであり、何にせよそれが別の「呪縛」にならないことは決してあり得ない。それを解くのは、また別の戦いだ。だから単純に、ただ自分たちの「幸せ」を皆んなに祝福してもらいたかったからこそ、大河は最後、あんな迂遠な道を選択したっていうので、いけないのかな?
 敢て自分が知的(?)に語りたいとすれば、それはこのアニメが「トゥルーエンド」に達するために必要だった、ハードルの多さについてだ。物語を見始めてすぐに、竜児と大河が最終的に結ばれることは誰にでもわかるのだが、実際に見ていくと、それはあまりにも多くの「偶然」がそれを助けなくてはならなかったことに気づく。ネットでたくさん言われているが、じつは竜児とみのりんこそが「両思い」で、下手をするとこの二人が結ばれた可能性の方が高いくらいなんだよね。大河は自分が選ばれてはいけないと思い、(自分の気持ちに反して)無理やり竜児とみのりんをくっつけようとしているし、あるいはそうなってもおかしくなかった。しかしアニメのルートではそうならず、竜児と大河の関係は様々な「偶然」が作用して、うまく「大恋愛」になる。これはフィクションなんだから、そんなの当たり前じゃんといえばそうなのだが、詳しくは書かないけれど、わたしはそれが「シンクロニシティ共時性)」というものではないかと思う。「大恋愛」って、そういうことじゃないか? 意味のある偶然、不思議な一致。偶然にすぎないといえば、そうなんだが。逆にいうと、「共時性」を説得的に描けるかが、物語作者の力量ということになるのだろう。