中沢新一『アースダイバー 神社編』

曇。夜の間に雨が降ったらしい。
タナトス的な夢。生々しい夢だった。わたしはいまお気楽な生活を送っているが、毎日死へ驀進しているし、わたしの周りの人間もまたそうだ。いつまでもこの生活が続くことはあり得ない。ということだと思う。結局、人生とは常に新しい展開が待っているのだ、それが幸福なものとは限らないけれども。

「永遠に女性的なるもの」といったのはゲーテだったが、わたしはそれでゲーテが正確に何を言おうとしたか、よくわかっているとはいえない。『ファウスト』第二部もほとんど忘れてしまったし。ただ、現代はその「永遠に女性的なるもの」がひどく貶められている時代だというのはいえそうに思う。特に女性自身が、「永遠に女性的なるもの」を嫌うようになり、例えばフェミニズム的にいえばジェンダー的に問題のある言葉と捉えられるのかも知れないくらいだ。もちろんゲーテの意図はフェミニズムの射程を遥かに超えているわけだが、そんなことはどうだっていいと考えられていると思う。わたしは、もはや已むを得ないことと感じているが、人類もある最終段階に至ったなあとは感慨する。もちろん、よくない意味で。
 「永遠に女性的なるもの」を殺したのは理性である。理性と感情をうまく共存させることが、我々にはむずかしくなった。まずは何よりも理性であり、そして感情は理性に従属させねばならぬというのが現代であろう。そもそも理性を鍛えるということはよく考えられているが、感情を陶冶する、深い感情を涵養するということは、まるで大事とは見做されていない。そして、結局は感情に操られているのである。
 そんなことをいっても通じまいが。敢ていうなら、感情=理性とでもわたしはいいたいのだけれども。感情と分けられない理性がある。その種の理性(=感情)こそが、まずは第一に来なければならないのだ。それは、言葉とは切り離された理性である。

午前中、部屋掃除。いやー、暑かったー。

老母が朝日新聞の「beパズル」のキツネの問題でうんうん言っていたので、Ruby で解いてみた。プログラミングを全然しなくなっていたので、なかなかコードが書けませんでした笑。
意味ないけれどコードを載せておく。

Names = %w(コン太 コン吉 コン蔵 コン助 コン三郎)
Baketa_mono = %w(地蔵 札束 少年 美女 大福餅)

baketa_mono = Array.new(5)

baketa_mono[0] = 4
[*0..3].permutation do |bake|
  baketa_mono[1..4] = bake
  [1, 3, 5, 8, 10].permutation do |time|
    next if time[3] == 5
    boy = baketa_mono.find_index(2)
    next unless time[boy] + 5 == time[2]
    beauty = baketa_mono.find_index(3)
    next unless time[beauty] == time[4] + 2
    jizo = baketa_mono.find_index(0)
    next if jizo == 2
    next unless time[jizo] == 10
    satsutaba = baketa_mono.find_index(1)
    next unless time[1] < time[satsutaba]
    
    pp (0..4).map { [
                       Names[_1],
                       Baketa_mono[baketa_mono[_1]],
                       time[_1]
                     ] }
  end
end

総当り法のとても単純なコード。baketa_mono.find_indexという効率のよくないことを何度もしているが、この程度の総数なのでこれでも短時間で解けている。変換テーブルを作ってみればもう少しマシか。

Names = %w(コン太 コン吉 コン蔵 コン助 コン三郎)
Baketa_mono = %w(地蔵 札束 少年 美女 大福餅)

baketa_mono = Array.new(5)
table = Array.new(5)

baketa_mono[0] = 4
[*0..3].permutation do |bake|
  baketa_mono[1..4] = bake
  [1, 3, 5, 8, 10].permutation do |time|
    (0..4).each { table[baketa_mono[_1]] = time[_1] }
    next if time[3] == 5
    next unless table[2] + 5 == time[2]
    next unless table[3] == time[4] + 2
    jizo = baketa_mono.find_index(0)
    next if jizo == 2
    next unless time[jizo] == 10
    next unless time[1] < table[1]
    
    pp (0..4).map { [
                       Names[_1],
                       Baketa_mono[baketa_mono[_1]],
                       time[_1]
                     ] }
  end
end

こんな感じ。前のコードに比べると、抽象度が上がってわかりにくくはなっている。

わたしは、優秀な学者で「傲慢」でない人間はひとりもいないと思う。ここで「傲慢」というのは、ふつうの意味とは少し異なるかも知れない。わたしがいいたいのは、優秀な学者で自分の知的能力に自信をもっていない人間はいないということだ。逆にいうと自分の知的能力に自信をもてない学者というのは、そもそも学者の資格を欠いているところがある。その意味で、優秀な学者で「傲慢」でない人間はひとりもいない。それゆえ、わたしは学者にはなれないのである。

いわゆる知識人というのも、その意味で「傲慢」であろう。同じことなのである。そして、ネット民というのもまた、そんな人たちが多い。自分の知的能力に自信をもてないネット民というのも、そもそもネット民の資格を欠いているところがあるのかも知れない。ゾロゾロと自信家のあとをついていく人(=別の自信家)たち。わたしは、ますますネット民=民衆にうんざりしているのかも知れないな。それは、「現実」にうんざりしていることに近い。ネット=現実だから。


中沢新一『アースダイバー 神社編』読了。読み終えてみて、自分の無知たるを思い知らされることになった。わたしは特に古代史と民俗学に弱い。まあ、それは措こう。わたしは以前から弥生人(本書では倭人と呼ばれる)と縄文人の混血を不思議なことと思っていたが、本書ではわたしが思った以上にその謎に切り込んでいっている。「神社」の誕生は、その混血のドラマと深く関係があるのだ。それは現在の神社と、そこに残されている伝承、考古学的資料、あるいは祭祀、あるいは地形を手がかりに探求されている。それはある種の人たちにはたんなる「空想」と思われるであろうし、そのことは残念ながら避けられない。いや、でもそれはいいのだ。どうせかかる人たちには、歴史も文化も、果ては生きるということさえもどうでもいいのだから。

どうでもいいことながら、わたしは本当に自分の底の浅さが残念でたまらない。わたしにも精神の「古層」は残っているのだが(そうでなければ、本書に感銘を受けることはあり得ない)、わたしのもっている射程では、「周縁」には不毛な空間が広がるばかりで、どれだけ遠くへ目を凝らしても、「古層」への具体的な手がかりはなかなか見えない。いまさら、わたしは才能 gift (それは能力ではない。むしろ存在・実存というべきである)ということを思うのだ。それは、予め与えられているものだと。しかし、そんなことをいっても仕方がないので、やれることをやるしかないのである、貧しくも空疎な世界で。


岩波文庫ゴヤの手紙』を読み始める。