SF と「理想的ディストピア」

日曜日。曇。

わたしは高校生のとき(80年代後半である)、SF が好きだった。古典的な SF はかなり読んでいる筈だし、それらを(ほぼ自由に予算の使えた)高校の図書室に導入してやったという成果をもっている。日本人では、神林長平が好きで、その頃ハヤカワ文庫で出ていたものはすべて読んだと思う。けれども、大学に入ると逆にほとんど SF を読まなくなった。神林御大の作品すら、もはやあまり読まなくなって、いまに至っている。そして、いまの文学は SF の時代になった。いや、当の SF を読まずにそういうのは何であるが、そのことは読まずともほとんど明らかといえるだろう。いま若くて優秀な人たちが、多く SF から思索のインパクトを受けているのは、わたしのごときでもよくわかるのである。それは、いまが徹底したロジックの時代だからである。世界のすべてが記号化され、理性化されることになった。世界や社会を語る文章が、どれも SF に酷似する文体で語られる時代になっているのである。これが、現在が実現された「理想的ディストピア」であることの証明となっている。
 「理想的ディストピア」は将来においてついに達成されるものではない。不完全ではあるが(それが救いであろう)、既に我々の社会はそうなっているし、それを完全化しようとあらゆる専門家・非専門家が日々努力し続けているところのものである。我々は、何かおかしいと思いつつも(いや、そう思わない人もいるだろうが)、他人や自分自身をロジックで雁字搦めに縛って、思考の身動きがとれなくなるように頑張っている。つまり、我々にはほとんど思考的自由がない。
 我々に残されているのは、快感原則だけのようにも思える。好きか嫌いか、おもしろいかおもしろくないか、気持ちいいか気持ちよくないか。筒井康隆は、それを「享楽乞食」と呼んだのだったか。ちがったかな?
 概念とロジックというのは閉じたものだ。世界の裂け目を見失ってはいけないのだ。

長時間、昼寝。うわっは、寝過ぎだ。

日没前、一時間ほど散歩。

ウチの南天の花が咲いた。


ヒメジョオンがあちらこちら、いっぱい咲いている。

カワセミ。暗いので解像度がキリギリ。


クチナシの花。



ソメイヨシノにもサクランボが生るのかな。





小学生の頃通った歯医者の建物。まさかそのまま残っているとは思っていなかったので、なつかしくて胸を突かれた。


ヒバリ。声高く囀りながらホバリングしていたので見ていたところ、下に降りてきたので撮ってみた。



アジサイのきれいな季節。今日も様々な種類を見た。

夜。
STEINS;GATE』第13話まで見る。暗転。