ドリアン助川『線量計と奥の細道』 / マスコミと権力批判

曇。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー386円。図書館から借りてきた、ドリアン助川線量計奥の細道』読了。前にも書いたけれど、著者はほんとにマトモな人。マトモっていうのは、そうだな、自分というものがしっかりあるけれど、自分だけが正しい、自分の感覚のみが正当とは、思わない人とでもいうか。二枚腰、三枚腰の人ともいうか。そして、自分の弱さを認めることができる。冷笑しない。わたしのようにいまや主にネットで人と接している(?)人間には、こういうマトモな人はなかなかいないように観測されてしまうが、現実生活だとそうでもないのだろうか。著者は2012年、線量計を片手に、折りたたみ自転車で「奥の細道」を旅するわけであるが、よき出会いがたくさんある。まさに人徳という気がする。わたしのようにそこそこ悪く、そこそこよいふつうの人間にとっては、著者のような人はまさにそうありたい感じがする。

線量計と奥の細道

線量計と奥の細道

なお、本書は第67回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。エッセイというか、紀行文というか、なのだけれど。
 
BOOK OFF大垣バイパス店。ドリアン助川さんの『あん』があったので、買う。読むのが楽しみ。

吉野家岐阜六条店にて昼食。牛丼 並+卵458円。11時過ぎくらいだったのだが、僕以外にお客さんがひとりもいなかった。たまたまか。わたしは吉野家の牛丼は学生のときから好きなのだが、あれ、こんなものだったかと感じた。特にお米があまりおいしくなかった。あと、トイレがあまりきれいでなかった。たまたまか。

スーパーに寄ってから帰宅。

夕方までずっとごろごろ。
強い雨

夕飯はジャガイモのベーコン焼、サラスパサラダ。食い過ぎ。

「反対反対ばかり言っている野党は情けない、対案を出せ」という紋切り型がある。特に若い人に説得力があるらしく、彼ら彼女らは、「反対反対ぃー」の野党が「保守」で、憲法を変えようという与党が「革新」であるように思ったりもするそうだ(実際にこういう高校生を教えたことがあるので、わたしは少なくともサンプル1は持っている)。わたしはといえば、ほう、そういう考え方もあるかとちょっと思ったので、多少意識的に観察してきた。さらに進んで、「権力の監視・批判? 幼稚だね」というがごとき学者その他がぞろぞろと出てきたのも、わたしは最初はほうと思ったことを記しておく。それもだいぶウォッチしてきたつもりだ。
 その上での何となくの非論理的な心の動きとして、わたしはやはり権力批判はマスコミ(いきなり唐突ですが)の使命であり、そんなことは当り前だと思うようになった。これはとにかく何となくなので、正確に自分の中で論理化していない。しかし、こんな風にはいえるかも知れない。順番として、まず国民(人民)があって、それが前提で国家がある。わたしはそれがあるべき考え方だと信じている(証明はできないが)。しかし、それで国家が廻っていくうち、国家の存立自体が自己目的化することになる。たとえ一部の国民をひどい目に遭わせても、国家が栄えなくてはならない、そういう方向に、政治家・官僚(これに学者を加えてもいいかも知れない)が向くようになっていく。わたしは、特に確かめたわけではないが、それが日本における政治家・官僚のむしろ常態であると思う。そして、国民にはある種のことを隠しておけばよい、さらには国民を騙してもよい、そういう風になっていく。それが日本の政治の常態であると、わたしは確信している。外国のことは知らない。
 ゆえに、ここからマスコミは権力と対峙すべきであるという結論までは、わたしの中では感情の飛躍はない。論理の飛躍はあるいはあるかも知れないが。わたしは、少しずつそんな風に思うようになった。何となくである。権力の監視や批判は、わたしはやはり幼稚なことだとは思わない。御用学者はどうか知らないが。

なお、こういう文章を読んで、ちょっと気の利いた人なら「功利主義」と指摘したくなるかも知れない。つまり、「最大多数の最大幸福」というやつである。わたしはというと、功利主義自体は避けられないところがあると思っている(「幸福」というのは計量できるのかという意見もありそうだが、そしてわたしもそれは尤もだと思うのだが、じつに幸福の計量なんぞで驚いていては、いまの学問など勉強していられない)。それと、上のわたしの実感は同居している。まあ、論理的に言ったら矛盾ということになるのかも知れない。そのあたりは、わたしは割とどうでもよい。たぶん、「矛盾」を避けるために屁理屈を捏ねることもできようが、そういうことはかしこい人(って誰?)にでも任せておけばよい気がする。