内田隆三『ミシェル・フーコー』

曇。
涼しい。昔は夏の朝って、こんな感じだったように思う。近年暑すぎる。やはり温暖化なのか。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第四番 BWV815 で、ハープはクリスティアーナ・パッセリーニ(NMLCD)。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第五番 op.24 で、ヴァイオリンはヴォルフガング・シュナイダーハン、ピアノはカール・ゼーマンNMLCD)。すばらしい。■ストラヴィンスキーのピアノと管楽器のための協奏曲で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はフェルッチョ・スカーリア、トリノRAI交響楽団NMLCD)。ポリーニ17歳のときの演奏。唖然。

スーパー。
昼飯は焼きそば。

図書館。

何にもやる気が起きない感じ。岩盤で隔てられている。ホントはあさってからの献立を考えないといけないのだけれど、面倒くさい(笑)。逃避して、「柿の種」をつまみながらコーヒーを飲んでいる。

何とか一週間分の献立を作って、Skype で老母と検討する。老母は今週中に退院できるかもと期待していたが、ちょっと無理みたいだ。なかなかうまくいかないな。いまひとつ予後がよくないのか。

夕飯はかれいの干物、冷ややっこ、残り物のピーマン煮。

内田隆三ミシェル・フーコー』(文庫版)を読み始める。とりあえず、文庫化に際して書かれた「序文」を読んだ。わたしはフーコーも、そしてここでフーコーとの対決が記述されているデリダも、かつて読んだがほとんど忘れたけれども、本書の記述を読む限り、デリダの方がよくわかるなと思った。以前は、デリダは全然わからなかったのだが。フーコーは精密すぎ、さらに些細な論理的一貫性に拘りすぎる(?)ようにも見える(あくまでもここの記述によればだが)。しかし(ここでの)フーコーにせよデリダにせよ、理性/非理性を措定し、その非理性に「狂気」を充当するのは二人とも同じで、そこは強い違和感を覚える。もっとも、近代西洋的思考からすれば「非理性=狂気」はあまりにも当り前で、そんなことを主張する極東の一素人のいうことなど、聞く耳をもたないことは当然であるが。ちなみにわたしがいいたいのは、「狂気」にも「理性」が存在するというようなことではない。まったくうまく言えないのだが、敢ていえば、狂気は理性/非理性などとはまったく関係がない、何か別の現象なのである。まだ、リビドーなんてものを持ち出してきたフロイトの方が「わかっている」と思う。

まあ、フーコーデリダも難しすぎますな。

内田隆三ミシェル・フーコー』読了。


本田靖春『複眼で見よ』を読み始める。