秋田魁新報取材班『イージス・アショアを追う』

曇。

NML で音楽を聴く。■ブラームスの十六のワルツ op.39 で、ピアノはヴィルヘルム・バックハウスNMLCD)。■マッティン・ロンベルク(1978-)の「アラディア」で、演奏はグレクス・ヴォーカリス(NML)。

Romberg: Witch Mass

Romberg: Witch Mass

  • アーティスト:Martin Romberg
  • 発売日: 2016/04/01
  • メディア: CD
■バッハの無伴奏チェロ組曲第三番 BWV1009 で、チェロはビョルク・ルイス(NML)。
Cello Suites 2

Cello Suites 2

昼から珈琲工房ひぐち北一色店。秋田魁新報取材班『イージス・アショアを追う』を読み始める。新聞記事のまとめかと予想していたら、自分たちの取材そのものを題材にした、ルポルタージュであった。一連の報道は2019年の新聞協会賞を受賞している。わたしはずっと静かな感銘を受けながら読んでいたのだが、それは何故なのだろう。取材を始めた当初は、新聞社としてイージス・アショア配備に対する賛否もはっきりしないままであった。そもそも、地方の新聞が、国政・軍事政策などを独自に取材すること自体があまりないことなのである。わたしはやはり、どうしても、メディアとしてのあるべき姿というか、勇気というかに、感銘を受けざるを得なかったのだと思う。そのうち、何となく社内が「イージス・アショア反対」という感じに傾いていくのだが、それは、国が地方をないがしろにしている、わたしが言い直すなら、国の「国民を騙してもよい」「国民に知らせなくてもよい」という感覚に、彼らが気づいたからだというのがよくわかる。この感覚は、特に日本国家においてとりわけ強いもののようにわたしは感じられる。昭和の戦争から、そこはたぶんほとんど変わっていないのだ。

イージス・アショアを追う

イージス・アショアを追う

第三章まで読んだ。続けて読む。

図書館から借りてきた、秋田魁新報取材班『イージス・アショアを追う』読了。一気に読まされた。秋田魁新報の取材は、本書にはまだ出ていないが、ついにはイージス・アショアの国内配備断念というところまで行き着いた。それほど長い射程をもった仕事になったということであるが、わたしにはその深さもまた印象的だった。たぶん、取材した人たちも事前にそこまでは予想していなかったと思うが、つまりは、日本の政治家・官僚たちの「フェアネス」の欠如を見事に浮き彫りにしていた。それはまた、翻って我々国民に返ってくる、結局それは我々、いやわたしの、民度の低さであり、「フェアネス」の欠如でもあるのだと。話を広げれば、我々は最低でも、事実を後世の判断に委ねるという態度を身に着けねばならない。昭和の戦争の敗戦時のような、いや、いまでもいたるところで見られる、証拠・資料の隠蔽と廃棄の慣習を、法によって強制的に変えさせる必要があるように思える。個人の自覚に任せてはダメだ、そういうわたしだって、この社会では自覚し切れるかわかったものではない。あとは、若い人たちへの教育・刷り込みなども必要なのかも知れない。いまや、政治における詭弁的答弁の技術は大変に発達した。もはや、遅きに失した気もするが、秋田魁新報の事例は、まだ諦めてはいけないということなのかもと思う。
 なお、本書の末尾三分の一ほどは実際に紙面に載った連載が収録されているが、これもまたわたしは興味深く読んだ。特に「盾は何を守るのか」という長期連載は、読み応えがあった。「盾」とは「イージス」の日本語訳となるが、この題は、盾が守っているのは、必ずしも日本でも、日本国民でもないかも知れないということを言外に示唆している。実際にこの連載を読んで、「イージス」が実際に守ろうとしているものを実感して頂きたいものだと思う。