クラーク『幼年期の終わり』

日曜日。晴。
午前中は統合とその後始末。なかなか大変だ。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第十八番 K.576 で、ピアノはマルタ・アルゲリッチアルゲリッチモーツァルトがあるのだな。明らかに若い頃の録音。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第五番 op.18-5 で、演奏は Julliard School の学生たち。

ドヴォルザークピアノ五重奏曲第二番 op.81 で、演奏はスヴャトスラフ・リヒテルボロディンQ。1982/12/31 Live. 最強コンビによる演奏。音は悪いがなんとか許容範囲です。

クラーク『幼年期の終わり』読了。池田真紀子訳。アーサー・C・クラークによる著名な SF で、以前から一度読んでみたいと思っていた。SF の古典は高校生のときにあらかた読んだのだが、たぶん本書は読んでいない。一読して不気味な小説だと思った。非常にオカルト的な背景のある話であり、ユングの「集合的無意識」の発想に影響されているようにも思える。完全にネタバレするが、ある世代以下の子供たちが「人類以上」の存在になり、「旧人類」は滅亡するというお話だ。個体としてのアイデンティティを失い、精神を集合的に共有させて全体としてひとつの生命体となる「新人類」は、ご丁寧にも最後は遊びで地球を粉砕してして自らの栄養分にしてしまう。そこでおもしろいのが、究極的に知性を発達させ、宇宙から来訪して人類を一種家畜化すると(最初は)見えた、「オーバーロード」たちの存在である。彼らもまた何者かに支配される存在であったとは! このあたりのところが、本書が不気味な所以だ。思うに、これからの進化の過程で別種の「人(homo)」が誕生することは大いに考えられることであろう。実際、ネアンデルタール人と(我々の直接の祖先である)クロマニョン人が共存する期間があったことがわかっている。それがこれから起きない保証はない。ただしそれは、現生人類から直接進化するかどうかはわからない。まあしかし、それを自分が目撃する可能性はまずは0であろうが。なお、ネアンデルタール人は知性の働きは我々より上だったと考えられている。ただし、人類がもつ「イリュージョンを作り出す能力」はもっていなかったらしい。ゆえに、宗教も存在しなかったようだ。僕は、現生人類というのはかなりかわった生命体だと思う。精神の「パーツ」の種類としてすべてのものをもっていて、比喩の能力をもち、ただしその精神を簡単に「病む」ようにできている。そんな風に思われる。人類は「詩」を作り出す能力をもっているのだ。これは地球上にかつて存在したどの他の生命体もおそらく成し得なかったことで、それは現生人類以外の homo にも無理なことであった。さて、本書のような意味での「新人類」は生まれるのか。どうも自分には確信できる答えがない。

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

ところで、人類はいつか必ず滅びる。100%間違いない。だって、物理学の予想だと、宇宙が加速膨張している事実からして、遥かに遠い未来においては、宇宙は塵のようなバラバラの原子がきわめて希薄に存在するだけで、あとは無数の巨大ブラックホールによって空間自体が半ば引き裂かれたような状態になることがわかっているから。もちろん物理学だって確実ではないだろうという人もいるだるろうが、確実なレヴェルでいうと、あと何10億年か後に、太陽半径が地球軌道を飲み込むことがわかっている。まあ、そこまでも生き残らないだろうけれどね、人類は。
しかし、そんなことを気にしても仕方がないですよ。我々の苦は、そういうレヴェルの話でなく、もっと卑近なものである。