吉本隆明を読む

晴。
すごく寝た。10時間以上寝たのではないか。脳が睡眠を要求している。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ協奏曲第十八番 K.456(内田光子、テイト、参照)。■バッハ:フランス組曲第二番 BWV813 (シフ、参照)。
やはり Alsaplayer の音がいちばんいい。

吉本隆明全集で、初期吉本を読む。何というおもしろさ。「マチウ書試論」は学生の頃文庫本で読んで、今度は再読であったが、昔は何にもわかっていなかったことがよくわかった。いや、今でもわかったのかどうか。この文章を書いた頃の吉本さんは今の僕よりもずっと若いのだが、才能のちがいは当り前のことだが歴然としている。まあそんなことはよいので、じつに楽しい読書だった。いや、どれを読んでもおもしろすぎる。吉本隆明を論じた文章は山のようにあるだろうが、それらのどれを読んでもたぶん、吉本隆明は異常に才能があって、読んでじつに楽しいという当然のことは、きっと書いていないだろう。そういうことを書くのは、僕のような幼稚な人間だけだからである。皆んなかしこすぎるのだ。しかしねえ、僕は岡井隆はすごい才能の持ち主だと知っているが、デビュー当時に吉本にかみついて、完膚なきまでにやっつけられているというのは知らなかった。いやもう、岡井には気の毒だが、勝負になっていない。この経験は間違いなく、(岡井は認めないかも知れないが)岡井にはものすごくいいことだったであろう。羨ましいことである。そんなのはほんの一例で、また吉本隆明の論争というのは、昔感じていた以上にフェアで無私なものだったというのも、発見であった。そして正確。例えばその岡井隆にせよ塚本邦雄にせよ、出てきた時にすぐにその才能を認め、正確に評価している。これにも驚かされた。
 それにしても、今の自分のホームグラウンドは PC の前で、PC の前に何時間でも座っていられるが、PC でそんなおもしろいことは残念ながらない。というか、PC の世界をそれだけおもしろくしていくのが次の世代の使命であろうが、まだ PC の世界に吉本隆明はいない。いったい、そういうことがあり得るのかどうか。まあ文筆の世界には中沢新一がいて、僕は天才と同時代に生きる幸福を感じているのであるが、PC の世界はやはり次の世代が背負うものだろう。僕らの世代は、甘ったれたバブル世代だから期待はできない。可能性はその前後ということになろうか。
 「マチウ書試論」の有名な「関係の絶対性」であるが、これは東洋思想の根幹そのものではないか。若き吉本さんは、決して東洋思想の方からここに至ったわけではないと思う。ただ己の中の極東アジア人を深く掘り下げただけであろう。これにも驚かされる。この人は本当に才能の塊だった。
 僕は浅田彰さんという人も好きなのであるが、この人はある意味吉本さんとは正反対だね。もちろん吉本さんは頭もすごくいい人なのだが、頭のよさというのは病気の一種だと捉えていたらしい(中沢新一に拠る)。浅田彰は超秀才で、一方で才能はその頭のよさに釣り合いがとれないくらい貧しい。まあ、「才能」という言葉をどう捉えるかだか、クリエイティブであることを才能と呼ぶなら、浅田彰はあまりクリエイティブでない。といって、『構造と力』を過小評価するつもりはまったくなくて、この本は何度読み返したか知れないのである。それでも…。浅田彰吉本隆明を評価しないのは、むしろ当然と云うべきであろう。吉本隆明は、ああいう整然とした理性の持ち主とはちがうのである。自分の深いところに真実をもっているのだが、深すぎて地上に出すのに悪戦苦闘する、そういうタイプの才能だったのだ。つまりは、詩人ということである。
 しかしこんなことを書いていると、自分の古くささに苦笑させられる。今では骨董扱いされている人ばかりだからな。まあ、それでもまったくかまわない。それが自分なのだから。