『吉本隆明 江藤淳 全対話』

晴。

尹伊桑のオーボエ協奏曲で、オーボエハインツ・ホリガー、指揮はイヴァン・フィッシャー。独創的なすばらしい曲。演奏もまず申し分ない。

ブラームスのチェロ・ソナタ第二番 op.99 で、チェロはジャクリーヌ・デュ・プレ、ピアノはダニエル・バレンボイム。何だかバレンボイムのピアノ、おもちゃみたいな音だな。

内閣府が算出した「最悪のシナリオ」これが33年後の現実だ!(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/5)
このリンク先の記事を読んで、シロクマ先生が何かセンチメンタルなことを書いておられたが、僕はそれほど思うことはない。いまですら日本は終っているのだ(また書いてしまいました)、それにこんなことは既に散々言われてきたことではないか。しかし 33年後か。まだ自分は生きている可能性がないとはいえない。このような日本を目にする日が、いつか来るのかも知れない。一方で思うが、そうなればそうなるで、人間はその状態に必ず慣れるし、その中でつつましくも幸せに暮らしていける方法を編み出すだろう。その意味で、悲観していても仕方がないと思う。本当の問題は、そんなところにはないと思う。いちばんの問題は、人工的な刺激に反応するだけの人生が、つまりは人生の空疎さが、耐え難くなってくることではないか。若い人たちを見ていると、そう思う。彼ら彼女らがマンガやアニメやゲームに没頭し、You Tube やニコ動中毒になっているのは、それらしか人生の耐え難さを忘れさせてくれるものがないからだと思える。これもまた人間の自業自得だ。まあ、これこそが文明の進歩といえるのだろうが。
しかし有り体に言って、日本人はセックスがそんなに好きじゃなくなったんだよ。アニメとかゲームとかニコ動の方が、気楽でいいんだ。その気持ちはわかる気がする。

吉本隆明 江藤淳 全対話』読了。感動して泣けそうでした、って相変わらずセンチメンタルですね。吉本さんはだいぶ読んできて好きなのだけれども、江藤淳はあまり読んだことがなかった。しかし、江藤淳もやはり大変えらい人ですね、ってこんな幼稚なことばかり言っている。二人の政治的立場はまったく逆方向だが、吉本さんへのインタビューで語られているとおり、認識にはそれほどのちがいはないし、お互いにリスペクトし合っているのがよくわかった。しかし、二人の死に様を知っているからそう思うのかも知れないが、江藤淳という人はじつにパセティックで真面目一本であり、それに比べれば吉本さんはずっとオプティミスティックだったと読んでいてつくづく思った。本書全体で、吉本さんが無意識にずっと江藤淳をいたわっているのは明らかで、またそういう対応を江藤淳は感謝していたような気がする。それにしても、「文学と非文学の倫理」(最後の対談)で、江藤淳が新しい世代にまったく期待しないと言っているのにはゾッとした。僕も似たようなことを書くけれど、僕はじつはひどくいい加減に言っているのに対し、江藤淳には恐ろしいまでの絶望しかない。江藤淳はテキトーな人ではあり得なかったのだ。この対談の最後の方で江藤淳は吉本さんと「話ができて本当に楽しかった」と何度も繰り返すのだけれど、こちらはフリーズしそうな気がする。これは江藤淳の気質なのだろうか。もっといい加減でもよかったのに。

なお、最後に収録された内田樹と源一郎さんの対談は、吉本さんと江藤淳の対談のあとに読むとクソとしか思えない。これは二人が悪いというよりは、やはり時代なのだと思う。何というか、すでに壊れている感じ。僕なんかもっとヒドいね。才能の差もそうだけれど、「文学と非文学の倫理」の当時、江藤淳は五十五歳なのだよね。僕はもうそうは遠くない年齢なのだが、自分のこのカスぶりは何なのだろうと思う。もうたいがいにしないといけない筈なのだが、何とも進歩しないものだ。