カンタン・メイヤスー『有限性の後で』

日曜日。晴。
よく寝た。十時間くらい寝たのではないか。寝ているのがいちばん楽しい気がする。

昨晩は中沢さんの『レンマ学』を読んで寝た。第五章まで読んだ。あんまり大袈裟なことを書く気が起きないが、現在存在するのが奇跡のような本だと思っている。わたし個人としては、一生読めるのが確実な本だ。学生のときに『森のバロック』を読んで感動したが(大きな影響を受けた)、またそんな体験ができるとはわたしは幸せ者だと思う。

NML で音楽を聴く。■バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻 ~ 第十三番 BWV882 - 第十八番 BWV887 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲 op.20 で、演奏はメディチ弦楽四重奏団、アルベルニ四重奏団(NMLCD)。おもしろかった。よい曲だな。メンデルスゾーンはハズレがない。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十三番 op.57 で、ピアノはダヴィデ・カバッシ(NML)。へー、こんなピアニストがいたのか。残りを聴くのが楽しみ。

Sonata Appassionata

Sonata Appassionata

ジリジリと焼けるような暑さ。
昼から米屋。肉屋。


カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』を読む。むずかしくてさっぱりわからないが、おもしろい。「信仰主義とは、強い相関主義の別名(二字傍点)である」(p.86)というのは、なるほど、こういうところに接続するのかと思った。わたしのテキトーな言い方でいうと、徹底的な合理的思考の極致が、宗教的不合理性を擁護するということである。これは著者ほど厳密な言い方をしなくても、わたしにもわかるところだ。またまたテキトーにいうと(著者の議論をはみ出るが)、ある意味では人間から宗教性を抜くことは不可能である。なぜなら、それが人間だから。別様にいうなら、人間は合理主義だけでは生きていけないのである。これは著者が言ってないことであるが。わたしは自分が合理主義者だと思っているが(ホント?)、わたしも合理主義だけでは生きていけない。続けて読む。

図書館から借りてきた、カンタン・メイヤスー『有限性の後で』読了。といってもむずかしくてよくわからなかったが、上に書いたとおりおもしろいことはおもしろい。しかし、第四章以降は素人のわたしには寝言としか思えないのですけれども。著者は「偶然性こそ、そしてそれのみが必然的」と主張するので、自然法則(物理法則のこと)は必ず変化しなければならない、と相当無理なことを主張する。そしてその理由としていろいろ屁理屈を述べているが、基本的には「自然法則がこれまで変化していないのは偶然である、それが明日変化しないということの証明はできない」ということに尽きている。これは確かに論理的には正しい。わたしが明日の朝目覚めたら、甲虫になっていないという保証はどこにもないのだから。しかし、これはわたしにはバカバカしく感じられる。もちろん、それはわたしが素人だからで、哲学の専門家には説得力があるのであろう。さらに、証明のためにカントールの定理を持ち出してきて、「思考可能なものの(量化可能な)«全体»とは、思考不可能なものである(全文字傍点)」(p.173-174)と断言しているが、これはまったく論理的な説得力をもたない言葉遊び、ただの「断言」に思える。そもそも「思考可能なもの」が無限であっても例えばその冪集合による「連続体仮説」は思考可能であるし(真でも偽でもないことが証明されている)、有限であるとすればその冪集合も有限であるにすぎない。これは(素人から見ると)著者の勇み足に見える。ま、といってもむずかしくてよくわからないのですけれどね。
 訳者解説によると(かなり参考になった)、本書の目的はカントの「物自体」を思考可能であるものにするということだが、へえそんなものなのですか。全然気づかなかった、さすがプロだな。しかし、この「物自体」というやつは、人によって何だか意味がブレていて、わたしにはよくわからないのだな。カント自身は、あんまり説明していなかった気がする(もう細かいことは忘れた)。本書みたいに「事実論性」とかいわれると、さらによくわからない。何でそんなものの「回復」が必要なのかというと、「相関主義」というのがアカンというのですな。ここらあたりはおもしろい。よくわからないけれど。

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論

有限性の後で: 偶然性の必然性についての試論