こともなし

冬至。晴。

午前中、散髪。薄着をしていったら、「そんな格好して、寒ない?」っていわれてしまった笑。店を出るときにふつうに「よいお年を」っていわれたのが、めっちゃ不意打ちで、適切に反応できなかった。ホント、普段、人とコミュニケーションを取っていないよ。去年も何か同じこと書いたが。


掃除機の古いバッテリーを処分するために、昼から30分ほどかけて県庁近くの電気メーカーの岐阜事務所へ行く。ところが、カーナビの目的地のあたりに、それらしい建物はない。うろうろして、あたりの人に訊いてもわからず、とりあえずもう一度ナビの目的地付近に行ってみたところ、ガランとした事務所みたいなのがあったので、よく見てみると、入り口の横に張り紙が。そこには、今年三月に移転しましたとの文字と、新しい事務所の場所を記した地図があった。地図を記憶して行ってみたら、ようやく新事務所を発見。無事、古いバッテリーを引き取ってもらえた。ふう。

県図書館。雑誌コーナーに「新潮」2022年1月号があったので、腰掛けて中沢さんの新連載「精神の考古学」第1回を読むことができた。そうか、「精神の考古学」というのは、吉本さんがかつて中沢さんの仕事をそう評価したところから来ているのだな(中沢新一チベットモーツァルト講談社学術文庫版、吉本隆明解説)。吉本さんの「アフリカ的段階」にも繰り返し言及しながら、ゆるゆると話が進められていく。つまりは、象徴を活発に使わず、なめらかに、流動的に揺れ動いていく、アニミズム的思考とでもいったものを指して、そういわれているわけだ。「アフリカ的段階」は古代中東に発生した「アジア的段階」、それは農業の開始による「増殖」の発生を本質とするが、に取って代わられ、「アジア的段階」からの射程は、現在のグローバル資本主義に至って、その可能性をほぼ汲み尽くしている。我々は、象徴とイメージの末期的氾濫の中で、精神の可能性をほぼ出し尽くした地点に生きているのだ。この連載は、その「精神の考古学」の可能性を開くため、どうやら次には中沢さんが若い頃に求めた、チベット仏教の「ゾクチェン」の考察に続くらしい。刮目して待つわたしである。

ちょっとしたことだが、中沢さんの文章に、前古代的思考における「沈黙」の重要性に言及があったのに目が留まった。わたしもまた、現代における「言葉による沈黙」ということをずっと考えているのだが、それと何の関係もないとは思えない。
 
帰りに肉屋。

夜。
NML で音楽を聴く。■モーツァルト弦楽四重奏曲第十五番 K.421 で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。

モーツァルト弦楽四重奏曲第十九番 K.465 で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NML)。