千葉聡『ダーウィンの呪い』

薄曇り。
一日二日の夜は『トニカクカワイイ』とかいう超下らないアニメを観返していて、朝起きるとどんどんバカになっていくという、いやーまーおそろしいこと。ま、バカでいいけどね。
 
 
夕方から千葉聡『ダーウィンの呪い』を読み始め、あれよあれよという間に一気に読了。むずかしいし、300ページを超えるハードな新書本だったが、これほどの知的思考力をもった充実した本は、めったにない。学者による書評としては「shorebird 進化心理学中心の書評など」というはてなブログに取り上げられてあるので、そちらなどを参照して欲しい。わたしは素人によるやくたいもない個人的感想のみ述べる。
 進化学(進化論)はまぎれもない科学だ。ダーウィンを(とりあえずの大きな)出発点として、複雑怪奇に発展し、現在は「進化の総合説」としていちおうの完成をみている。わたしは90年代前半の学生時代に、素人ではあるが進化論についてそれなりに関心をもって本を読み、ちょうど大学の友人が分子生物学をやっていたので、いろいろ話し合ったりもした。それからも、学の発展は啓蒙書レヴェルでフォローしてきたつもりであるが、しかし、「進化の総合説」を正確に理解するのは、かなりむずかしいね(わたしは出来ていない)。本書は進化学の発展を簡潔に追っているが、それでもちょっと啓蒙書レヴェルを超えていると思うくらい、むずかしい。統計学がまさに進化学の開発のために整備されたものだということも知らなかったし、20世紀初頭の「メンデル派」と「生物測定学派」の対立は、「大進化」と「小進化」という形で、いちおう知っていたが、それがロナルド・フィッシャーという学者によって、数学的に統合されていたというのも、よく知らなかった(第六章)。これこそが、現代の「進化の総合説」の基礎である。やー、めでたしめでたし。
 で終わらない。「科学の通俗化」というのは、「通俗」という言葉から否定的に思えるかも知れないが、必要なことである。進化学(進化論)もまた通俗化され、それがいかに、科学に関係のなさそうな、一般人の生き方に大きな影響を与えていることか。例えばいまでも、「進歩せよ」「生き残りたければ、努力して闘いに勝て(生存競争と適者生存)」「これ(進化論)は自然の事実から導かれた人間社会も支配する規範だから、不満を言ったり逆らったりしても無駄だ」というような(進化論由来の)考え方は、我々を支配していないだろうか。著者はこれらをそれぞれ、「進化の呪い」「闘争の呪い」「ダーウィンの呪い」と名づけている(p.5-6)。例えば、ネットのある領域では、(通俗)進化心理学に影響されて(呪われて)いる人は、いっぱいいるし。
 本書がこの「進化学の通俗化」でピックアップするのが、「優生学」である(第七章以降)。ナチス優生学は有名であるが、優生学の本場はもともとイギリスで、アメリカで大発展したし、日本でも優生保護法はじつは平成(1996年)まで有効であった。いずれにせよ、強い国家、優秀な国民を作ろうという、ナショナリズムと関係している。現在ではナチスのイメージで優生学=悪となっているが、優生学は、いまなら「進歩的」といわれるような人たちも積極的に関与してきたのであった。
 いまでも、国家から個人レヴェルになるだけで、優生学の発想は残っている。遺伝子操作や精子の選択により、みずからの子供の能力をブーストするというもので、日本ではあまり表立ったことは少ないが、特にアメリカで一般市民レヴェルで支持する人が少なくないらしい。
 専門家でない一般人は、こういう問題にどう対処したらよいのだろう。問題の所在を理解することすら、むずかしいというのに。ほんと、学問がむずかしくなりすぎた。でも、どーでもいいというには、人生観、みたいなものからいっても、「通俗化された進化論」は我々バカにも「呪い」として、影響が大きすぎるのである。