「進化心理学はなぜ批判されないのか?」 / 「ノーゲーム・ノーライフ」を観る

雨のち曇。

母診察。

昼食はモスバーガーのドライブスルーにて。先週と同じ注文なのに値段が上がっていたので訊いたところ、一昨日値上げしたんだってさ。
肉屋に寄る。

ツイッター酷すぎて(?)見ていると頭がおかしくなりそう。とても見ていられない。わたしの感覚がナイーブすぎるのだろうが。皆んな、よくこんなのに耐えられるな。ついていけない。というか、もうネット自体つらい。

スーパー。

夕方まで寝る。

進化心理学ってわたしの科学的「常識」(あまりアップデートされていない)からすると疑似科学としか思えないのだが、実際どれくらい科学として信用できるのだろうな。「心」が進化論的に自然淘汰(あるいは自然選択)されて生物学的に「変化」していくという前提自体、アプリオリには認められないと思う。そもそも、その「心」とは何か、というのが科学的に明確でない。「心」は自然淘汰の対象なのか? それ自体、科学的に問われるべきことのような気がする。
 例えばこういう文章がある。

ダーウィン的な進化論を認める以上は、動物には進化論を適応しても人間には進化論を適応しないこと、また人間の身体的特徴に進化論を適応しても心理的特徴には進化論を適応しないと、論理的におかしくなるだろう。

進化心理学はなぜ批判されるのか? - 道徳的動物日記

しかし、この文章ではどう「論理的におかしくなる」かが論証されていない。「心」には確かに先天的に決定される側面があるが、非先天的(後天的)要素の方が大きいことがわたしには明白に思えるから、進化心理学にきびしくあるのは、わたしにはむしろ当然のことに思える。
 追記しておく。そもそも DNA が決定しているのはアミノ酸の配列であり、それが(身体を構成する)タンパク質の種類を決めると大雑把にいってよいから、DNA が「身体的特徴」、つまり身体的形質(なお、ここでいう「形質」は、遺伝学におけるタームである)を決定することはわたしくらいの理系的常識でそのメカニズムが(ひどく荒くではあるが)おおよそ想像できるけれども、どういうタンパク質が「心」をどういう過程で決定しているかということになると、説得的説明はいまだ存在しないのではないか。(まあ、そのあたりわたしは最近勉強していないので、タンパク質が「心」の「形質」をいかに決定するか、そういう知見がいまはコンセンサスを得られているのかも知れないけれど、さてよくは知らない。)とにかく、そういうメカニズムが明白になっていないのであれば、やはり進化心理学はいまのところ、科学であると主張するのはかなりあやしいといわれても仕方がないと、わたしの理系的常識は主張する。

母診察。

夜。
ノーゲーム・ノーライフ』(2014)第12話(最終話)まで観る。いや、めっちゃおもしろかったんですけど。いいところで終わって、何で2期来てないの? 確かに、クセの強いアニメだが。一種の俺TUEEE で、すべての勝負(国家間戦争とかも)が「ゲーム」で決まる世界で主人公(たち)が無双する話だが、そのゲームの勝負が理詰め、読み合いっていうのがおもしろい。特に「具象化しりとり」の勝負ってのが爽快だったな。もちろん「理詰め」といっても結局常人には不可能で、そこらへんはアニメ特有の都合の良さがあるのだが、わたしはそれは気にならなかった。よくもこういう俺TUEEE の見せ方を考えたなということで、オリジナリティがあると思う。あと、随分と笑わせてもらいました!