吉田夏彦『論理と哲学の世界』

日曜日。晴。

バッハの「シャコンヌ」のピアノ編曲版で、演奏はグリゴリー・ソコロフ。2003/5/2 Live. 「シャコンヌ」のピアノ編曲版というとブゾーニのが有名だが、これは(You Tube のコメント欄によると)ブラームスクララ・シューマンのために編曲したもので、左手のみで演奏するものだそうである。これはどうしてもブゾーニ版と比較してしまうが、壮麗なブゾーニ版に対し、ブラームス編曲の方はオリジナルに近く、だいぶ簡素な感じだ。いずれもすばらしいわけで、そのときの気分次第ということになりそうであるが、いずれにせよ無伴奏ヴァイオリンのための原曲の厳粛さには敵わないような気もする。なお、ソコロフは見事ですね。こういう透明で柔らか目の音のピアノは、いまちょっと他にないように思われる。

モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第五番 K.219 で、ヴァイオリンはアンネ=ゾフィー・ムター。引き締まった美音による完璧な演奏なのだが、どうもよくわからなかった。これはこちらのせいだろう。この曲自体も、終楽章が特に不思議で、わかりにくい。どうしてあの特異な中間部が入っているのだろうな。

自分は普段は既に東北の震災のことは忘れて暮らしているが、さすがにこれだけテレビやネットで言及されると思い出す。そういうことも重要であるだろう。我々は東北のことを特別視すると同時に、ある意味で特別視しないことも必要なのかも知れない。例えばいまだに仮設住宅に住んでおられる方々がいて、我々はそれを当然視しているが、ふつうの人間を六年間もあのようなところに住まわせておいていい筈がない。彼ら彼女らはふつうの人たちなのである。海岸線に「万里の長城」を築くことができて、どうしてそういうことにお金が使えないものなのだろうか。また、福島産の農産物や海産物はふつうの食べ物であるが、我々はそれを特別視しないでふつうに購入して食べることができるだろうか。それが意外とむずかしい人もいるのかも知れない。やはりそれは福島に何か含むところがあるのではないか。と、忘れっぽい自分の心をかすめた妄想である。

シューベルトの「冬の旅」全曲。歌手はハンス・ホッター、ピアノ伴奏はジェラルド・ムーア。語学ができないのは本当に残念だ。歌曲というのは芸術(でなくとも、何でもいいが)のジャンルの中でももっとも深いもののひとつであるように自分には思われる。この曲は70分を超える長大なものであるが、聴いているとあっという間のようにも感じる。演奏についてはいまさら言うまでもなし。古びるということのない録音であろう。

吉田夏彦『論理と哲学の世界』読了。いま先端的な哲学を40年前に先取りした、入門書としても使える哲学書とでもいうか。非常におもしろかったと同時に、嫌悪感も抱かされた、よくできた本である。集合論や論理学を下敷きにした本であり、特に第三章までは他書を参照する必要がなく、本書だけで論理学の基礎がわかりやすく学べる。これは高校生でも、数学を知らなくても充分読めるので、論理に関心がある人にはお勧めできる。もちろん内容は高度であるが、論理学は適切に解説されれば決してそれほどむずかしいものではない。だって、誰もが使っている「言葉」が題材なのですから。
 第四章以降は、それ以前とは少し性格がちがう。第四章と第五章は現代数学のいわゆる「数学基礎論」の話であり、あまりにもむずかしい題材も含まれているので、注意が必要だ。正直言って自分はゲーデルの「不完全性定理」を技術的なレヴェルでは理解しておらないし、たぶん大学の数学の先生の殆ども(程度のちがいはあれ)似たようなものだと思う(概説でいいのなら、ブルーバックスとかのレヴェルでもいいのがあります)。これはそれくらいむずかしい話だ。だから、おおよそのところがわかれば可であろう。それでも、多少は(通俗的なそれでもかまわないので)数学基礎論のイメージがないとむずかしいと思う。
 第六章以降は、たぶんこれがメインの内容であるが、自分には大しておもしろくなかった。著者はできるだけ曖昧さがないように「哲学」を構成したいようにも見えるが、例えば頻出する「感覚所与」とか「実在」「現象」という語が自分には曖昧さの塊のようにしか思えないので、何とも言いようがない(ちなみに矛盾しているようだが、僕には曖昧でも特に問題はない)。また、著者は自分なりに「形而上学」という言葉を「救済」してみせているようであるが、これもどうでもいい。自分には屁理屈としか思えない。もっとも、このような自分の捉え方がまちがっているのだとは思う。しかし、自分にはパズルとしての「哲学」には、それ自体としてはあまり興味がないのだ。このような「中二病的」思考に大いに意味があることはわかっているのだが、自分でも散々中二病してきたので、もういいのである。かしこい人たちに任せる。世界をどんどん曖昧でなくしていくのは時代の趨勢であるが、そればかりでなくともよいのではないか。いまの若い人が本書のような哲学書に魅了されるのはよくわかるのだけれど。

論理と哲学の世界 (ちくま学芸文庫)

論理と哲学の世界 (ちくま学芸文庫)

ホント、理屈って何でもつくよね。理屈のつかないことなどない。それがすごいと思う。
自分などは、著者に言わせれば、著者が否定的な意味で言っている「神秘主義者」なのであろう。そう言われても別に結構である。まあそんなにエラくはないけれど。

ゲーデル不完全性定理は本当にむずかしく、優秀な数学者でも簡単には理解できないらしい。投稿されたゲーデルの論文を査読したのは確かフォン・ノイマンだったらしく、さすがはフォン・ノイマンというのを何かで読んだ記憶がある(まちがっていたらごめんなさい)。それはともかく、ゲーデル不完全性定理のことを聞いただけでフォン・ノイマンには一瞬でその発想がわかったらしく、非常に悔しがったというのは有名な話だ。世の中の概説書を読んでいると得得と不完全性定理について語っておられる方が少なくないが、どういう優秀な人たちなのであろうか。世の中には優秀な人が多すぎる。おおコワ、桑原桑原。

https://earth.nullschool.net/jp/
何このサイト。超綺麗。現在のシミュレートらしいが、すごすぎる…。
例えば、これとか。
コール オブ デューティ」というゲームが大人気だと知った。リアルタイムで架空戦場で殺し合うゲームということである。シューティングでも RPG でも、ゲームの半分以上は「殺す」快感を味わうそれだろうな。皆んな殺すのが好きなのだな。
開高健の短編に、人を殺す快楽に目覚めた米軍兵士が出てくるそれがあったと思う。そういえば思い出したが、第二次世界大戦のときの敵に直面した米軍兵士の発砲率を調べたところ、非常に低いものだったので(確か50%いっていなかったと思う)、それを「改善」し、発砲率を高める訓練を米軍は行ったらしい。その後は兵士たちは、敵を見たら90%以上の割合で発砲するようになったという。たぶんいまでは、そうした訓練をどこの国でも実施しているような気がする。
大岡昇平の小説家としての出発点は、戦場で突然目の前に現れた米軍兵士に対し、どうして自分は発砲しなかったのかという問題であった。その米軍兵士は、大岡に気づかず彼の視界から外れていった。結局、大岡は一生その問題から離れることはなかったのである。
僕は以前から思っているのだが、「殺す」ということについて、我々はまだじつはあまり考察していないような気がする。というか、自分がわからないだけかも知れない。どうして人は人を「殺す」のか。「殺す」とは何か。もちろん聞いたふうな返答はいくらでもできようが、とにかく自分にはよくわからないという実感だ。ただ、吉本さんは「関係の絶対性」という極めて有名な言葉を書きつけた。我々はそのような関係性がなければ、人など殺せるものではない。しかし逆に、そういう関係性(例えば戦場)の中にいれば、人を殺すのは極めてふつうのことになる。だから、殺し合いのゲームをやっていてもそれで実際に殺人に手を染める人はまずいない。それはわかっているが、しかしゲームでの人殺しはやはり好きなのだ。変な感じがする。

明日から小観光に行ってきます。