片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン』

日曜日。曇。
 
ぶ厚い雲が空を覆う中、航空自衛隊岐阜基地の「航空祭」が始まった。部屋にいても轟音が響く。
 昼すぎ、畑からブルーインパルスの飛行が観られた。ループ(宙返り)や、あと四機がダイヤモンドを組んで真上を飛んだりとか。近くに来ると、機体が確かに青いのがわかる。
 
お八つに老母の作ったアップルパイを食う。あつあつで、なかなかうまかった。シンプルに紅玉のフィリングを既成品のパイ皮で包んで焼いただけだが、いいもんだな。
 
 
ちくま文庫新刊の『ゼロから始めるジャック・ラカン』を読み始める。200ページくらい読んだ。難解なラカンをわかりやすく説明していて、なかなかおもしろい。しかし、わたしはラカニアンにはなれないな、ってのも感じる。ラカン(あるいは精神分析)は「他者」や「欲望」、「無意識」、「主体」などというものを重視してそれらを言語で精密に構造化するが、この言語による精密ぶりが「西洋的」であり、また概念が強く「実体化」されられてしまっていて、ゆるい、エーカゲンなわたしにはしんどい。あまりにも、クソマジメなのだ。精神分析は臨床において最終的に個人の「特異性」をあらわにせねばならぬそうであるが(いわゆる「病気の治療」は最終的な目標ではない)、わたしにはめんどうくさすぎる、人生もっとテキトーに、どーでもいいじゃん、って感じ。バカでゴメンね。
 
片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン』(元本2017、文庫版2023)読了。副題「疾風怒濤精神分析入門」。これはかなりおもしろかった。第六章の後期ラカンが特におもしろかったね、何様だが、ラカンの思索はなかなかに深い、よくわかっているなと思わされる。ラカンのいう「もの」と「対象a」のちがいがわたしにはわかりにくいが、どうであれこれらは重要な概念だ。わたしにいわせるなら、「世界の裂け目=リアル」として自分にたちあらわれるものを、指しているように思える。これらはさらに、確かに(ラカンのいう)「欲動」や「享楽」とも関係しているであろう。
 著者は人生に対する態度として、比喩的に、「幸せがないことをそのまま肯定するような『生き方』」(p.313)を推奨している(それこそが「幸せな生き方」なのだ)が、これは誤解を生みそうではあるけれど、インパクトのある、うまい言い方だと思う。世間一般でいわれている「幸せ」なるものを志向するのは、つまりは「他者の欲望」に依存することであるから。
 あと、ラカンのいう「法」(これは一般にいう「法律」の「法」を含むけれど、それよりも遥かに広いコノテーションをもっている。力を伴った象徴構造といってもいい)は、わたしは(自分の中で)一旦解体されねばならないと思っている。これは「精神病者」の世界であると本書でいわれているけれど(p.299-302)、それはそうであるが、それを通過しないかぎり、世界を覆い尽くす「法」の欺瞞的な面に気づくことができない。もちろん、「法」の解体されたままで生活を送ることはできないから、我々はふたたび、あたかも「法」が存在するように見かけ上、それを再構築して生きることになる。しかし「法」の解体は、きわめて重要なことなのだ。

 

 
夜。
たまゆら~hitotose~』第6話まで観る。
 
ホリミヤ -piece-』第5話まで観たところで、U-NEXT のサーバに不具合が出て、観られなくなった。
と、サーバ復活して第8話まで観る。これ、1期みたいな堀さんと宮村君のラブストーリーってわけじゃないのな。高校生の友達たちのオシャレな日常劇みたいなもんなんだ。微炭酸系だってさ。わたしにはオシャレすぎるんですけど、ま、慣れておもしろくなってきたのはそう。