我々バブル世代のこと / 巨大アーカイブとわたしたち / 種村季弘『ヴォルプスヴェーデふたたび』

日曜日。雨。
また新しい月が始まる。時はどんどん流れる。いや、新しい一日が始まるのだ。眠ることにより、目覚めた状態の意識の連続性はリセットされ、それは救いでもある。
でも、朝起きて、「ああ、また一日が始まるのか」と憂鬱になる人もいるのだよな。
 
 
僕たちバブル世代は、世代一般として、世界に対して不満というものをもっていなかったと思う。このすばらしい世界が、ずっと続いていくかのように、空想していたのではないか。あとは、ただ自分の欲望を自然に満たしていけばいい、と。わたしはそういう生ぬるい風潮にあきたらず、またこの小春日和はいつまでも続かない、何とかしたいと思って自分なりに対応しようとはしたのだが、結局何もできなかった、ということになろうか。しかし、まさかここまでのことになるとは、わたしの予想を遥かに現実は超えていたわけだが。いまや、若い人たちは、誰しも多かれ少なかれ、希望を失って生きている。いわば最悪の時代だ。
 
考えてみたら、ヘーゲルを引用した「歴史の終わり」なんてのも脳天気な話だったよな。確かに、進歩史観という「大きな物語」はなくなったにせよ。でも、話は替わるが、(さすが)東さんのいうとおり、いまは AI という新たな「大きな物語」が登場した(まあこれも、進歩史観の延長線上にあるといえるかも知れないが)。これはほんとうにそうで、インターネットが世界を変えたのにも増して、AI の進化は世界を、人間を、人生を変えてしまうだろう。その射程は、わたしなどにはまだとても見通せない。
 
 
巨大アーカイブに膨大に蓄積され続けていくコンテンツは、「自然」の代わり、新たな「自然」となり得るか?
 いまはその巨大なデジタル・アーカイブに、ネット経由で簡単・安価に接続することができる。もはや一生かけても、我々は個々人おのおので、てんでバラバラに、そのほんの一部に触れ得るにすぎない。(というのはまた別の話か。)我々は一生かけて全体のほんの一部のコンテンツ(それでも個々人にとっては膨大すぎる)をバラバラに享受し続けて、それでいったい何だというのだろう。ただの娯楽にすぎない、何の意味もない行為でいい、というならわかるが、それ以上に何か可能か?
 批評? しかしそれは、お互いの孤独な偏見をさらけ出す行為以上たり得るのか? ある種の場は、誰もが「おれ、おれ」と叫び合っている、ただの自己顕示欲の発露の集合体ではないのか? 何の意味か、あるや?
 コミュニケーション・ツールとしてのコンテンツ? コミュニケーション、か、ヘーゲルの「主と奴」の闘争にならなければよいが。コンテンツをたんなるツールと割り切るのは、今ふうのひとつの考え方だ。本当にそれのみで割り切れるならば。コンテンツは透明であり、それを語るにおいて自己(の読解の優越性)を主張せずに済む、というのならば。けれども「自己」が出てくれば、ややこしいことになる。
 何にせよ、しかしたぶんそれだけでは済まない。我々の心は、そんな「膨大な量のコンテンツ」を注入し続けて、何の「副作用」も出ないほど、堅牢なものではない。何か、反動がくるのがふつうだ。というので、賢明な人間は自分の精神の限界を超えるようなことは、しないということになるのだが。ま、娯楽、コミュニケーション・ツールというだけならそれでいいよね。
 
冥い認識だなあ。まあ、凡庸に明るく楽しく生きられれば、たぶんそれでいいんだよね。それでいけない筈がない。
 

 
雨あがる。スーパー。外気23℃で、いちだんと涼しい。
 
昼。空が雲で覆われていまにも降りそう。
珈琲工房ひぐち北一色店。コーヒーチケットを買う、4200円に値上がりした。
種村季弘『ヴォルプスヴェーデふたたび』(1980)読了。「日本の古本屋」サイトで購入したもので、購入履歴を見ると 1,102円(送料込)だったようだから、わたしにはひどく安く思える。箱(オビはひどく傷んでいる)も付いていて、グラシン紙でくるんでもあるのだから、実際どうなんだろうね。叙述はわたしのレヴェルを超えているけれど、贅沢な気持ちになれる本だった。感想は既にその都度書いているので繰り返さない。ハインリヒ・フォーゲラーという、あまり知られていない画家の(悲惨な)生涯を中心に、ドイツの芸術村ヴォルプスヴェーデの興廃(?)をゆるゆると描く、いまでいうと「誰得」な本である。わたしが読んだ中では、種村さんの最高傑作ではないか。文量も多いし、特殊な本だから、文庫化されることはないだろう。さて、『ビンゲンのヒルデガルトの世界』はどうするか。

 
 
夜。
『好きな子がめがねを忘れた』第9話まで観る。なーんだ、やっぱりおもしろいじゃん。天然の三重さん、ようやくちょっと気づいたな。いやー、ムズムズするわ笑。