佐伯一麦&小川洋子『川端康成の話をしようじゃないか』

曇。涼しい。
 
NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ協奏曲第二十番 K.466 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はクラウディオ・アバドモーツァルト管弦楽団NML)。2011年のライブ録音。安定のいわば教科書的演奏であるが、それでもここまでのレヴェルにきっちりともっていくというのは、これはこれでさすがである。アバドは2014年に死去。ピリスは2018年に引退したというが、いまでも好きにやっている(?)らしい。

モーツァルトのピアノ協奏曲第二十七番 K.595 で、ピアノはマリア・ジョアン・ピリス、指揮はクラウディオ・アバドモーツァルト管弦楽団NML)。モーツァルト最後の、透明なピアノ協奏曲。アバドの入りが、ピンと張っていてすばらしく、こういうのは成功が約束されたも同然ということが多い。それに違わぬ名演。ピリスもアバドも K.466 のそれのように教科書的演奏ではあるのだが、この曲の方がそのアプローチに合っている。とてもよく、聴いていて気持ちよくなってしまった。さすがの巨匠たち。
 
 
朝10時にネッツトヨタ、アクアの車検である。雨。代車(ヴィッツ)を受け取って帰る。やっぱり乗り慣れていない車は少し緊張するな、途中うどん用の天ぷらを買うためマックスバリュに寄ったが、狭い駐車場なので慎重に。車両保険が付いていないそうだしな。
 
昼。雨、降ったり止んだり。
シューベルトの「ガニュメート」「ギリシャの神々」「ミューズの息子」「あふれる愛」「愛の言葉」「白鳥の歌」「死に寄せて」「ます」「春の小川」で、ソプラノはエリー・アメリング、ピアノはルドルフ・ヤンセンNML)。モーツァルトの幻想曲 ハ短調 K.475、ニ短調 K.397 で、ピアノはイヴォンヌ・ロリオNML)。よい。

 
 
図書館から借りてきた、佐伯一麦小川洋子川端康成の話をしようじゃないか』読了。これはおもしろかった。世界の底の抜けた作家を、繊細な作家たちが読む。特に小川洋子さんは独特の幻想(?)世界をもつ作家で、また佐伯一麦が、ここまで読んでもらえれば作者も以て瞑すべしというような、説得力ある読みを見せている。最近ではフェミニストに叩かれることも多い川端、「変態作家」と一言でくくられがちな川端であるが、ほんとここまで読み込めればすばらしいと思わされた。(しかし、そもそもわたしは川端康成をあまり読んだことがない。そして、川端を読むにはあまりにも幼稚な人間なのではないかと、またいつもながら痛感する。わたしが文学がよくわからないのは、その人間的な幼稚さゆえではあるまいか。)
 作家たちの読みというのでおもしろかったのは、川端に「小説を作ろう」という、いわば作為があまり感じられないということ。短篇、掌篇でも、オチのようなものがつかず、こんな風に終わっていいのかという終わりなんだそうだ。だから、川端の掌篇は(フランスの)「コント」ではない、という。あるひとつのアイデアを思いついて、それを核にして作る、というわけではないというのだな。ただ、見てしまった、「見れば書ける」、川端はそういう作家なのだという。例えば、将棋をやっている名人たちを見る、それだけで書ける、と。
 あとは、川端から「性」を抜いては語れないが、ここはわたしはまさに語り得ないので、本書に就かれたい。よくいわれる川端の「処女好き」も、悲しい過去ゆえだというのだな。川端は恋愛を正面から取り上げない、川端の小説を駆動するのは、愛欲ではない、と。そのあたりは、例えば谷崎と全然ちがう。たぶん、川端には「主体」がない、「自分」などどうでもいい、「自分」は既に死んでいる、とすらいえるかも知れない、らしい。
 そういえば、「末期の眼」というのがあったが、あれは本書で話題にされていないな。小林秀雄が言及していたのだったと、覚えている。
 

 
夕方、ネッツトヨタに代車を返し、車検終了。車検って結構お金がかかるんだよねー。
 
夜。
くさくさして『吉本隆明全集27』を読み、ホッとする。ほんと、つまらないことでくさくさして、仕様がない。まだまだだな、自分は。
 
寝ようとして灯りを消し、ベッドに横たわったら、窓から上の方に月が見えた。わたしは視力がたいへんに悪いので、ぼんやり滲んだ姿だったが。