「86―エイティシックス―」(2021)を観る

雨。まだ五月なのに入梅
 
昼飯を食いながら NHK+ で「キャッチ!世界のトップニュース」を観ていたら、特集が中国における川端康成ブームについてで興味深かった。直接のきっかけは中国で川端の翻訳の著作権が切れたことによるようだが、それにしたって『雪国』の中国語訳が20種類以上あるというのは尋常でない。その他の作品も、おしゃれな本屋にずらっと並んでいるのはちょっと壮観だった。何というか、日本のマンガやアニメなどのサブカルや(新海誠監督の『すずめの戸締まり』もヒットしたそうだ)村上春樹などが中国で(も)よく受容されているのは知っていたが、ハイ・カルチャーも好んで享受されてきているのだな。まあ、川端康成三島由紀夫は外国人のエキゾチズムをある程度満足させる、そういうのはヨーロッパなどでの受容からも理解できることではあるが、それだけに留まらない、日本に対する真剣なまなざしを感じさせるものがあった。砕け散った日本文化はあちこちへ飛散して、きっと世界のどこかで静かに消化・吸収されていくし、それでいいのだという気もする。
 しかし、恥ずかしい話だが、『雪国』って小説はわたしにはかなりむずかしいんだよね。非常に繊細微妙な恋愛というか、愛欲の心理が描かれていて、あの頃の風俗と、人間というものをあまり知らないわたしのよく理解し切れるところではなかったように思う。
 

 
雨なので(?)屋内でビワの実のコンポートを作る。種を取り除いて皮を剥く作業がいちばん面倒だ。あとはグラニュー糖を加えてしばらく煮るだけ。

 
 
礒崎純一さんの『龍彦親王航海記』を読み始める。単行本で500ページに垂(なんな)んとする大著なので、全部を丁寧に通読するかわからないが、とにかく巻を措くあたわざるほどおもしろい。ちょっとだけ読んでみるつもりだったのが、あっという間に100ページである。
 本書を読んでいると、若い頃のわたしがいかに澁澤龍彦に魅了されていたかがとくと思い出される。澁澤ごときはせいぜい中高生あたりで読み捨てておくべき作家という人もいるが、わたしは田舎者なので、大学生のとき心底から親しんだ。当時は愚かしいバブル景気の余波がまだ残っている頃で、あの凡庸な同時代の雰囲気がイヤというか、それを半ばバカにしていたわたしは、その文章のダンディズムと、埃っぽい俗世間の風がまったく吹いていない、純粋な想像力の世界に、魅入られてしまったのだと思う。また、そういう著作(『胡桃の中の世界』や『思考の紋章学』、『ドラコニア綺譚集』といったもの)を特に好んで繙いていた。それがわたしの土台となって、残っていることは確実である。幻想文学や幻想絵画への好みもまた、いまでも抜きがたくある。わたしの内部にある、秘密の空間。澁澤龍彦に関係する作家(特に澁澤が翻訳したもの)も、たくさん読んだが、いまは語るまい。まあ、わたしもかつては、そこそこの読書家だったかなと思う。

 
 
夜。
『86―エイティシックス―』(2021)第23話(最終話)まで観る。大傑作。ハッピーエンドとはいえないけれど、超絶鬱展開の連続の中で、最後レーナとシンが会えて本当によかった。レーナ(ミリーゼ少佐)は、生き残ってパルチザンのような部隊を指揮していたということかな。彼女、シンと再会できてボロ泣きしてた…。死に場所を探していたようなシンも、これでレーナと一緒になって、戦う理由ができた、ってことだね。アニメらしい荒唐無稽ながら、すばらしい作品でした。何度もホロリとさせられた。それから、作画が最高レヴェル。戦闘の描写は CG なのか? 人物はレーナはかわいく、シンは無口で陰のあるイケメンで、他の主要キャラクターもずっと安定していた。