希望としての没落

曇。

没落し、後ろ向きの日本は、逆説的に強欲な資本主義から、スローなそれへの転換の可能性を秘めているのかも知れない。実際、日本人の無意識は、そちらの方向を向いていなくないようにも思えてくる。ある種のぬるさ、表現の洗浄。高度資本主義からの(没落の方向への)少しのズレ、中心のわずかの移動、それを現在の精神の全領域において周縁から中心化、普遍化していくことが、日本人の世界的貢献になる可能性が、極めて少しだけ、存在するかも知れない。少なくともこれこそがグローバルな規模でのダイバーシティだということは、いえるであろう。可能性としては、萌芽のようなものであるが。

これは非常に微妙な問題だ。安易な定式化を許さないところがある。ただ、自分の殻に閉じ籠もっていればいいというわけでもないし。
つまるところ、この幼稚さ、こそに何かがあるのだ。何故に我々はかくも無意味で、幼稚なのか?

想像力の領域において世界的な中央統括化が進んでいる。例えば、世界中で同じハリウッド映画、同じ Netflix のドラマが観られているように。それからズレているのは、よかれ悪しかれ日本だけのように見える。

午前中、ずっとぼーっとする。

雨。
昼から県営プール。七月から冷水期間。
肉屋。

空疎。
シューベルトの楽興の時 シューベルトの34の感傷的なワルツ(抜粋) シューベルトの2つのスケルツォ モーツァルトのオーボエ四重奏曲 バッハのリュート作品


夜。
柳宗悦を読む。

中沢さんの訳した『鳥の仏教』を読む。

早寝。