M ⇔ A あるいは M ∪ A

晴。

スーパー。

アウトプットが少ないという意見があるが。もうコンテンツの洪水にはうんざりさせられるから、大したことないアウトプットなんかするなという気もするし、どうせすべて滅びるのだから、いくらでもゴミを撒き散らしたらよいという気もする。って、どちらも極端か笑。

結局、アニメとかの領域と現在の(日本の)極端な西洋化の領域は重なっているということだ。まあ、東さんとか見ていればわかるか。ただ、「ミネルヴァの梟は夜飛ぶ」とあるように、前者が先行し、後者が追っているということは一応あるかも知れない。この領域を「A」とし、モダンの領域を「M」とすれば、わたしのような特殊な人間がやっているのは M→A で、いまの気の利いた(若い)人たちがやっているのは A→M ということだ。いずれにせよ、それはじつに大変なことであり、しんどいことで、大きな苦痛なしには成し遂げられないことであるが、仮にそれがかなりのところまで達成できたとして、さほどの希望にならないことがわかってきたような気がする。それだけでは、資本主義に新たな差異の材料を与えるにすぎない。
 A領域は想像力の領域であり、具体的な生命の感覚から遠く、本質的に人工的で、不安定である。アニメなどは、その人工世界をなめらかにし、堪えられるものにするための、一種のドーピング薬物として機能しているところがある。つまりそれだけでは、世界の人工化を一層強化するにすぎない。
 A領域は、むしろ M を積極的に排除した上で一種の想像力の暴走として成立しているのかも知れない。それが、A領域の必ずもつ「幼稚さ」の原因であろうか。では、M と A の和集合 M ∪ A を達成すると、どうなるのであるか? ただのもうひとつの、「中心と周縁モデル」そのままであり、周縁から中心のベクトルによる世界の活性化として捉えられるにすぎないわけか?
 例えば、「オタクの社会適応」なんてのも、ひとつの「世界の活性化」というわけである。これは、首肯できる話だな。そして、資本主義はあいかわらず栄える。

暑い。
市長選挙期日前投票。図書館。

鈴木大拙を読んでから、早寝。