関川夏央『「一九〇五年」の彼ら』

晴。
 
昼。
銀行屋来訪。
肉屋。
 
散歩。暖かい。

ウチのマンリョウ(万両)。


ムクドリ


隣村の神社。

オオイヌノフグリ


東海北陸自動車道

 
『中国第二の大陸 アフリカ』の続き。三分の二くらい読んだ。
 
夜。
図書館から借りてきた、関川夏央『「一九〇五年」の彼ら』読了。副題「『現代』の発端を生きた十二人の文学者」。承前。さらに藤村、独歩、高村光太郎与謝野晶子荷風野上弥生子平塚らいてう、啄木。わたしは十二人の中では特に露伴が好きだ。といってもわたしの露伴は、文庫本の十五冊程度と、岩波書店から出た『露伴随筆』全五冊(学生時代に古書店で思い切って買った)くらいのものである。本書に拠れば、大岡昇平はこんなことを書いているそうだ。孫引きする。「(露伴は)道教、魔法、数の神秘についての一家言があった。その知的好奇心の及ぶ範囲は驚くべく広かった。濫読、饒舌、さらに一種の凡庸さが具わっていることも、その宇宙的な心性の徴候といえる」と。さすがは大岡昇平ではないだろうか。「一種の凡庸さ」というのはよく言ったものであり、ここでの「凡庸」は必ずしもネガティブなコノテーションをもたないことはいうまでもあるまい。露伴は、ある意味では「文学者」ではなかった。圧倒的な巨人、文章の芸術性をもちながら、まったく無名のまま終わっても、露伴本人は大して意に介さなかったことであろう。関川さんは露伴の最高傑作を、娘の幸田文その人としているが、これもまた、露伴の業績をよく知った上の言なのだと感じられる。なお、鷗外は同時代で後世に残る人間として、まずは露伴を挙げていた筈だ、そんなことは、どうでもいいかも知れないが、あの鷗外のいうことであるから。

なお、五年前に本書は既読である。意外といい感想を書いてるなと思いました笑。
 
「日本の古本屋」サイトでちょっと調べてみたら、『露伴随筆』バカみたいに安いな。まあ、いまはそういう時代であろう。
 露伴は文語文でも口語文でも日本語として最高級の文章が書けたが、わたしは江戸言葉から直接つながる露伴の口語文が好きなのである。露伴の文語文はおそらく歴史的に見ても、もっとも格調が高くしかも明晰なそれであるが、例えば『運命』などの高みにはわたしの能力を超えるところがあって、残念だ。露伴の特に随筆のやわらかく温かい口語文は、平易でくだけていながら、明晰さは同じでなんとも心地よい。露伴が和漢に広く通じていたことはいうまでもないが、英文の骨格が入り込んでいることを指摘した福田和也は慧眼だったと思う。
 

 
ヴァイオレット・エヴァーガーデンOVAを観る。
 
露伴「幻談」を読む。