関川夏央『「一九〇五年」の彼ら』

晴。
早起きしたのだが、一時間以上ぼーっとしていた。

ラヴェルの「優雅で感傷的なワルツ」で、指揮は小澤征爾小澤征爾は僕には謎の指揮者なのだが、ちょっとわかってきた気もする。確かにとてもユニーク。カラヤンバーンスタインも小澤をすごくかわいがったのだが、何となく納得されてきたような。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲 op.77 で、ヴァイオリンは庄司紗耶香。庄司紗耶香の魂に食い入ってくるようなヴァイオリンを聴いていると、ブラームスはそれほどの天才ではなかったのだなと感じる。そのブラームスが好きな自分の凡庸さも思う。じつは聴き始めたとき、北ドイツ放送交響楽団NDR Sinfonieorchester Hamburg)はなかなかいい感じだなと思ったのだが、庄司のヴァイオリンと重ねて聴いているとこれもちょっとみすぼらしく感じられてしまうのが残酷だ。あんまり天才も困るなあと思わないでもない。終楽章はブラームスも頑張っていて、庄司ものびのび弾いている感じだった。通して聴いてかなりしんどかったです。

昼から一日仕事。
図書館から借りてきた、関川夏央『「一九〇五年」の彼ら』読了。副題「『現代』の発端を生きた十二人の文学者」。母から廻してもらった本。僕の好きな関川夏央である。1905年とは日露戦争が終った年で、その前後の文学者たちを小伝として活写した本だ。著者は書いている。「一九〇五年からもう百年たつ。しかし、それが大衆化した社会でありつづける限り、百年たっても人の意識はそう変わらない。したがって死に方も変わるまい、という見通しがあった」と(p.243)。まさしく著者の言うとおりである。ただ、ここには鴎外や露伴という人たちがいて、彼らのような人間は現代ではまったく払底した。本書でも、この二人に関しては自分は特別の感慨を覚えた。しかしそれ以外は、現代人とまったく同じである。けれども、日本の近代文学にはふつうの人間の愚かしさを「文学」として定着するという、一種の偉大さがあった。現代は、それを欠いているだけ、近代文学の形成してきた貯蓄を放擲した。本書は、新書本の体裁はしているけれど、その近代文学に繋がる文学そのものである。まさしく時代遅れで、しかも圧倒的な実力をもち、ポピュラリティが(たぶん)ない。著者はあとがきの最後で、「歴史を軽んじるものは必ず歴史に復讐される」(p.244)とさらりと述べている。著者の目には何かが映っているにちがいない。

そういう自分も、近代文学をあまり知らない。本書に登場する文学者たちも、読んでいる人の方が少ない。まだまだである。

下の本日の mathnb さんのコメントにおける問題などは、とりあえず射影空間・射影多様体の基礎知識が必要なようですね。いまあんまり数学をやる気がしないし、上野健爾『代数幾何入門』の第二章あたりがわからないと手が出ないような感じ。各項の係数が面倒すぎるし。まあ自分はあまり頭がよくないので、ぼちぼちやらせてもらいます。

いまの PC で唯一悩まされていた、Linux Mintサスペンド復帰後にキー入力が利かなくなるという問題を、ついに解決しました。1年間以上かかったな。
Linux Mint 18 (Ubuntu 16.04) でサスペンド復帰後にキー入力ができなくなる - Camera Obscura