赤坂憲雄『岡本太郎の見た日本』 / 庶民の消滅

曇。

ごろごろ。

スーパー。
屋根からの雪解け水が樋を流れる音がする。

「基本的には巣ごもり生活なので、一日2,3本ずつ映画を観ている。」本を読みまくり映画を観まくり、散歩をして鉄道に乗って古本を買って音楽を聴いて、okatakeさんマジすごいな。また読ませる文章をお書きになるんだよ。

晴。
昼から扶桑のイオンモールミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルフレンチブレンドコーヒー429円。『岡本太郎の見た日本』の続き。第四章まで読んだ。岡本太郎の東北、沖縄(再)発見が丁寧に腑分けしてある。ここに描かれた太郎は、動物的な嗅覚と、きわめて高度な知性が分かちがたく結びついていて、複雑かつ単純である。太郎が(再)発見した縄文にせよ、東北・沖縄にせよ、その発見の射程が遠くまで届いており、いまも無効になっていないのは明らかだ。太郎は、時代的にも尖端をいっており、現在においても容易には超えがたいことがよくわかる。太郎の文章の引用がまた魅力的だ。
 それにしても、と思う。確かに太郎は日本に篦棒なものを欲していたにちがいない。京都・奈良は太郎には空疎だった。しかし、世界の亀裂を探すのに、わざわざ遠くへ行かねばならないのだろうか。日常の中にこそ、世界の亀裂は発見されねばならないのではないか。太郎が、ギリギリの限界点を欲し、篦棒な感受性をみずからに組み込もうとしていたのはわかるが、どうもわたし(ごとき)には、いまひとつつまらない感じもする、エラソーだが。なぜ、無を発見するのに沖縄まで行く必要があるのだろう。いや、太郎はとっても偉大なのだがね。
 確かにわたしの感受性などは大したことがない。しかし、ここにあってすら凡庸な世界はやはり美しいのだ。もちろん、この凡庸で繊細な世界も、いずれ過度に人工化されて滅びることになるのだろうが。

赤坂憲雄岡本太郎の見た日本』読了。岡本太郎という人は何でもよくわかっている人だった。著者はあとがきで、岡本太郎は果たしてホンモノなのか、信じていいのかと思っていたが、やはりホンモノだったと述べている。そうであろう。太郎は疑いもなくホンモノである。けれども、少なくともわたしには、ホンモノである太郎は、あまり役に立たない。我々、いやわたしの課題は、ニセモノがこの時代に、どうやったら「豊かに」生きられるかというものである。「豊かに」というのは、無限に対して開かれて、といってもよいだろう。まあしかし、それもホンモノである太郎のような人に接するしかないのかも知れない。とにかく、本書の続編である、『岡本太郎という思想』も、できれば読んでみたいと思っている。

岡本太郎の見た日本 (岩波現代文庫)

岡本太郎の見た日本 (岩波現代文庫)

 
庶民というものが消えつつある。インターネットにおいて膨れ上がっている自意識(≒アイデンティティ)。自我(個性)などというのは、世界を「内」と「外」に分け、「内」を後生大事に守るための言葉による防壁にすぎない。敢て自意識を演じるなら(鷗外の「かのように」の哲学)、極小・最低化したいものである。それが、現在において有効かは、まったく定かでないが。ま、無視されておしまいなだけだろうな。さても、インターネットの外には、まだ庶民というものが存在するのではないかという、空想が抑えられない。

「個性」なんてものは、偶然に選ばれたものにすぎない。決定的なものでも何でもない。世界=わたしこそが決定的なのだ。それは、自分のすべての「個性」を破壊した上で初めて現れるものである。

犬夜叉』第48巻まで読む。

犬夜叉 (44) (少年サンデーコミックス)

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