赤坂憲雄『武蔵野を読む』 / 谷脇康彦『サイバーセキュリティ』 / 石牟礼道子『魂の秘境から』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのヴィオラ・ダ・ガンバソナタ ト長調 BWV1027 で、ヴィオラ・ダ・ガンバは市瀬礼子、チェンバロ武久源造NML)。ふつうによいなあ。もう日本人音楽家とか関係ない気もするなあ。

ショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲第八番 op.110 で、演奏はボロディン四重奏団(NMLCD)。ショスタコーヴィチの傑作。演奏も充分よい。■バッハのトッカータ ホ短調 BWV914 で、フォルテピアノ武久源造NML)。主張の強い演奏。少なくとも凡手風ではない。また、この曲をフォルテピアノで弾くのはめずらしい。■ドビュッシーのフルート、ヴィオラとハープのためのソナタで、フルートはマガリ・モニエ、ヴィオラはアントワーヌ・タメスティ、ハープはクサヴィエ・ド・メストレ(NMLCD)。

昼からミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。ホット・セイボリーパイ フランクフルト+ブレンドコーヒー。赤坂憲雄を読む。

赤坂憲雄『武蔵野を読む』読了。赤坂さんの本なのでそれなりに楽しめるかなと思って買った。読後感は、うーん、まあまあというところ。おもしろくなかったことはなかったが、それほどおもしろかったというわけでもない。中身は独歩の『武蔵野』精読といってよいだろう。赤坂さんというと「東北学」という先入観であるが、生まれは東京であり、また東京に戻って来られたようだ。柳田国男から、川本三郎柄谷行人前田愛等までが参照される。柄谷行人の「風景の発見」「内面の発見」はいまではスタンダードになったと思われるが、本書では微妙な違和感も提出されている。しかし、「内面」か。ちょっと内面というやつは、いまの自分には面倒くさい。内面など、どうでもよいではないかという気がする。僕は思うが、日本の近代文芸批評を大成させたのは小林秀雄であるが、小林という人は常に近代的「内面」の人であったわけではない。むしろ、次第にそこから離れていった人のように思われる。敢ていうなら、エクリチュールの「物質性」の方向へどんどん進んでいった生涯ではなかったか。まあしかし、そんなのはいま適当に思い付いただけだけれど。僕は『武蔵野』を読んだことがないけれど、精読してしまうくらい、そんなにすごいものなのだろうか。本書を読んでいると、独歩の貧しさ(のように本書から受け取れるもの)に辟易しないでもないのだが、まあこれは自分ごときのいうべきことではないね。
 本書でちらちら出てくる宮本常一の「武蔵野論」(?)みたいなのには、ちょっと興味がある。赤坂さんは実力者であるが、到底宮本常一には及ばない感じがする。ってのもどうでもいいですね。宮本常一の主要著作にハンディに触れられるエディションがあるとよいのだけれど、そんなものはちょっと知らない。

武蔵野をよむ (岩波新書)

武蔵野をよむ (岩波新書)

関係ないけれど、どうして露伴を読む人がいないのだろうな。読んでいるのは近年では福田和也くらいしか知らないが、それももう随分前のことである。露伴は確かに既に古くさいのだが、日本文学史の中でも特筆すべき巨人であろう。まあ正確には露伴は小説家ではないし(小説家としての露伴は氷山の一角である)、じつのところ既に読める人がほとんどいないのだな。わたしも学がなくて、人のことはいえないが、残念なことである。当り前だが、鴎外は露伴が読めていた。皆んなちっぽけになったな。


『禅海一瀾講話』を読み始めたが、こんなにおもしろい本はないね。自分のクソぶりをとことん思い知らされているところである。わたしはすぐに増長するのだが、いまの時代のちっぽけぶりも悪い。己のクソかき箆であることを徹底して自覚したいところである。そんなでも、遥かに遠い世界を忘れずにいたい。

谷脇康彦『サイバーセキュリティ』読了。

サイバーセキュリティ (岩波新書)

サイバーセキュリティ (岩波新書)

 

図書館から借りてきた、石牟礼道子『魂の秘境から』読了。何も書くことはないのだけれど、何か書きたい気もする。石牟礼さんを読んでいると、我々の失ったものの大きさに呆然とする。そして、滅びということがどうしても頭に浮かんでくる。どうも、日本人というのはほとんど滅びてしまったというのが事実のようだ。いまの若い人たち、また子供たちを見ていると、恐ろしい。魂が薄くなっているかのようだ。あと、生きている人がどれくらいいるのだろうと思う。もちろん妄想であろう。

魂の秘境から

魂の秘境から