ジョージ・オーウェル『ライオンと一角獣』

曇。
とてもアニメ的というか、もろ「ソードアート・オンライン」みたいなフルダイブ型 MMORPG 的世界観の夢を見る。でも夢だからゲームじゃなくて、ある意味「現実」なんだよね。ふつうの世界で、ただ「剣と魔法」が使えるというか。カラフルで力強い、異様な夢だった。普段の生活では何か自己肯定感を失っている日々だったのだけれど、もっと自分の能力を信じていいと夢が教えてくれたような、ポジティブなそれだった。たましいのレヴェルで自分の「力」がわかるような。なるほど、現代におけるファンタジーの世界の意味みたいなのが示唆されるような気もする。幼稚な話かも知れないが、元気が出ました笑。

肉屋。スーパー。
雨。

昼からネッツトヨタで定期点検。一時間ほど待つので、オーウェルのエッセイ集の続きを読んでいた。つけっぱなしになっているテレビではワイドショーを流していたが、オーウェル現代日本にいたら、ワイドショーというものを適切に考察し得たかも知れない。
せっかく車をきれいに洗ってもらえるのに、小雨が降っていて残念。支払いは交換したオイル代くらいだった。


図書館から借りてきた、ジョージ・オーウェル『ライオンと一角獣』読了。オーウェルはほんとに不思議な人だ。政治的な事象に曇りない目をもちながら、本書所収の「ひきがえる頌」のような文章が書けるのだから。わたしは短い「ひきがえる頌」を読みながら、ほろりとさせられた。「私はかねがね考えているのだが、われわれの経済的政治的問題が真に解決されるならば、生活は複雑になるのではなくて簡素になり、最初の桜草を見つけて得られる喜びの方が、ジュークボックスの調べに合わせてアイスクリームを食べる楽しみよりも大きく思われてくるのではなかろうか。」(p.289)そんなことは多分なく、そうなればいまやほとんどの人はアニメを見たりゲームをやって日々過ごすような気がするのだが、わたしはオーウェルのようにありたいとは心底思うのである。われわれは自然の無限の多様性のもつ美しさへの感性を失い、サニタイズされたモダンな人工世界に住むようになったが、恐るべきことである。
 オーウェルは滅多にいない、まともな人だ。優れた編者解説にも decent の文字があるが、わたしのここでいう「まとも」とは、decent のことであるといってもいいだろう。オーウェルに対してよく使われる decency の文字は、誰がいい始めたものであろうか、知らないが、いかにもという感じがする。「人間らしさ」と訳されることもあるが、それはあまりにも手垢に塗れた言葉だ。
 文明は進歩し、時代が下るごとに世界はよくなっていく。そして一方で decency は失われていくようにも見えるが、どういうものだろう。我々はいまや、意味で充満した、とてつもなく息苦しい世界に住んでいる。オーウェルは、新鮮な眼で世界を見ることができた人であり、そういう人にとって世界は開かれている。オーウェルの decency とは、そのような世界をあくまでも守ろうとする態度のようにも思える。

 
阿部和重『オーガ(ニ)ズム』を読み始める。これはおもしろい。チープ極まりない偽史的物語なのだが、微妙にチープそのものからズレている。わたしに表現できるのはその程度のところで、もどかしい。エンタメ的なおもしろさもある。

阿部和重がしんどいので早く寝ようとするが、なかなか眠れない。大変な強度と異様なマトリックス。現在でも文学が可能なんだなと驚く。阿部はわたしと同い年だが、同世代で最大の才能をもった小説家だ。