今日の夢について、ひどく個人的な話

雨。
高校の部活動の延長線上にあるような夢だと思っていたら(先輩と後輩、わたしが先輩)、自分の生き方に関わってくるようなそれだった。ストーリーとしてもよくできた夢だったな。あまり覚えていないのが残念。

今日の夢について、ひどく個人的な話。
このところ、ひっそりと落ち込んでいた。考えてみれば、「世界の人工化」がわたしの中で大きくクローズアップされるようになったのは、さほど昔のことではないのだ。それは、エコロジー方面とはほとんど関係がない。むしろ、世界は本来、無限であるという気付きによるものである。それは、自然は無限であると言い換えてもよい。しかし、逆に現在、世界は(有限の)記号で覆い尽くされ、記号の集積こそが世界(「人工化」された)であると見做されるようになっている。背後のリアルは、もはや我々には感知されないのである、それこそが世界=自分であるのに。そのことに、わたしは次第に気づくようになった。そして、「世界の人工化」が「精神の死滅」であることにも。
 しかし、それはほとんど不可避であることにも、わたしはまた気づくようになった。それがわたしのいう、「東洋の死」である。ちなみに中沢さんも(当然ながら)それに気づいていて、もはや東洋を強調せず、最先端の科学的探求の中にポツポツと見られるようになっている従来「東洋」と呼ばれた思考を、「レンマ学」として取り出すという途轍もない力技に着手しておられる。けれども、正直言って、わたしにはとてもそこまでは、たぶん無理だ。それどころか、わたしのやろうとしていることは、誰の役にも立たない、と。
 夢はいう。それはたぶん正しい。わたしのやろうとしていることは、確かに誰の役にも立たない気がする。それでも、もしかしたら、極少数の人の心に、小さな波紋くらいは引き起こすかも知れない。結局、事実として無意味な生であっても、(無駄な)希望をもつしかないと。武満さんが最後に抱くしかなかった、捨てるわけにもいかなかった希望というのは、それに似たようなものであったのだろうか?というのがわたしの妄想である。

スーパー。

昼から雨の中、県図書館。
ミスタードーナツ バロー市橋ショップ。シュガーレイズド+ブレンドコーヒー396円。いま借りてきた、平凡社ライブラリーオーウェルのエッセイ集『鯨の腹のなかで』を読み始める。如何にしてオーウェルということが可能だったのか、いつも驚かされる。この人には、たぶん才能なんていう(巷にありふれた)ものはなかったのかも知れない。そんなどうでもよいものはなくて、ただ徹底的に散文を鍛えたかのように見える。思考の歩行の道具としての散文。オーウェルはいつも坦々と、静かに歩く。そして、ついにはその散文と一体化してしまい、ふつうにゆっくりと歩いているうちに、誰にも見えなかった地点にたどり着いている。まったく、わたしは芸もなく、驚くべきと繰り返すしかない。

オーウェルはわたしとちがって、センチメンタルではない。けれども、どの文章を読んでも、背後に豊かな感情のプールが存在することに気づかされる。彼の散文は、知性が感情を殺していない。幼稚な感情が知性をダメにしてもいない。これは、本当にむずかしいことである。

インターネットは高度な知性と幼稚な感情にあふれている。我々の感情は幼稚すぎる。我々は感情面で、退化しているといわざるを得ない。