明恵さんの「あるべきようわ」 / ジョージ・オーウェル『空気をもとめて』

日曜日。晴。

NML で音楽を聴く。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第四番 op.18-4 で、演奏はエマーソン弦楽四重奏団NMLCD)。■バッハのパルティータ第三番 BWV827 で、ピアノはシャガイェグ・ノスラティ(NML)。

 
明恵さんの「あるべきようわ」(あるべき様は)。関係主義は相対性の中に自分を失ってしまう恐れがあるので、「あるべきよう」を求めるのは大切なことだ。相対的関係主義こそ、思想が必要なのだ。
 社会の中で生きる以上、すべてが相対的な寂滅の内に生きることはできない。そこが、大乗仏教が自分のさとりだけを求めて恬とする「小乗仏教」と袂を分かったところなのである。大乗仏教を選択する以上、「何よりもまず衆生を救う」という「執着」から逃れることはできない。

スーパー。

昼寝。


珈琲工房ひぐち北一色店。コーヒーチケットを買う。
オーウェルの『空気をもとめて』第三部の冒頭まで読む。この小説がちょっと見えてきた。主人公はイギリスの中産階級の、中年のデブっちょで、平凡な人間であるしそのことをむしろ肯定しているのであるが、その自分をちょっと突き放して見られる力があるのだな。自分が「社会の歯車の構成員」にすぎないというようなことを言ったりする。それは、第一次世界大戦への従軍体験がそうさせたのか、ちょっとはっきりしないが、その自己認識(それは社会認識でもある)の力は、案外と平凡でない気がする。格別なことは起きない、退屈といえば退屈な小説だが、とにかく、なかなかおもしろくなってきた。

図書館から借りてきた、ジョージ・オーウェル『空気をもとめて』読了。原著刊行は1938年、オーウェルがスペイン内戦に参加したあとのことであり、本書では第二次世界大戦が避けられないという予感が随所に出てくるが、戦争前に書かれた小説なのだ。矛盾しているといわれようが、本書は退屈な小説ではあったけれど、とてもおもしろかった。わたしの読みとしては、人生は幻滅の連続であるけれど、それでも生きるに値するというオーウェルの「人間に対する信頼」の表れた小説として読んだ。そうなんだ、最終章で主人公は故郷に旅行客として帰るわけであり、まったく様の変わってしまった故郷は幻滅以外の何ものでもなく、最後は旅行を浮気だとかんちがいした妻にほとほと困り果てるところで終わるが、これはコミカルな一種のハッピーエンドであるのだろう。主人公に故郷を見てみようと思わせたのは、自然の中で感じた突然の「至福感」(p.226)ゆえであり、そのような瞬間の体験ゆえに、人生は生きるのに値するのかも知れない。我々のような現代人だって、自然が残されていればこそそのような感覚はあり得るだろうが、少しづつ少しづつ、我々の「空気」が減りつつあるのもまた事実だ。オーウェルは、既にそのことに気づいているような感じがする。が、それをそんなに簡単に語ってしまえば、安っぽい「自然保護」「エコロジー」等のイデオロギーに容易に堕してしまうから、もっと慎重な手続きが必要なのだろうな。
 訳者あとがきによれば本書はオーウェルの本としては、そこそこ売れたもののようだ。訳者はオーウェルを「女の描けない(凡庸な)小説家」と見做して揶揄しているが、わたしはそれにちょっと、「女を描ける」とされる吉行淳之介の小説を罵倒した上野千鶴子さんの怒りを思い出してしまったね。その他、訳者あとがきは凡庸そのものであるとわたしには感じられる、どうでもいいが。

原題の「Coming up for air」というのは、魚が空気を求めて水面に浮かび上がってくることを指しているらしい。我々も、空気を求めてアップアップしているよね。

SIRモデルでの実効再生産数の極限は? - himaginary’s diary
わたしもこの「理系の感染症医」氏のツイート(正確にはリツイートで)は見た。このツイートでいわれているのは短い言葉だが、実質的には専門家として、岩田健太郎氏の「無知」を揶揄したものである。これを見てもちろんわたしは、有名な岩田氏でも、高度な疫学的専門的知識をもっておらず、誤ることがあるのだな、という風にあまり考えずに納得してしまっていた。ところが、himaginary先生のエントリによると、今度は「理系の感染症医」氏がかなり特殊な仮定をして求めた結果だという風に見えてくる。あるいは、専門家の「詐術」のように。でも、僕は himaginary先生の記述内容も、完全に理解したわけではないのだな。こうなると、わたしは自分の無知をどこへもっていったらよいのだろうか。