ジョージ・オーウェル『水晶の精神』

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのブランデンブルク協奏曲第三番 BWV1048 で、指揮はベンジャミン・ブリテン、 イギリス室内管弦楽団NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第一番 op.18-1 で、演奏はヴェーグ四重奏団(NMLCD)。よい。ヴェーグQには驚かされるな。古くさいのだけれども古くさくないという。■武満徹の「精霊の庭」で、指揮はマリン・オールソップ、ボーンマス交響楽団NML)。

細川俊夫エチュード第一番「2つの線」、第二番「点と線」、第三番「書(カリグラフィー)、俳句、1つの線」、第四番「あやとり、2つの手による魔法(呪術)、3つの線」、第五番「怒り」、第六番「歌、リート」で、ピアノは児玉桃(NML)。細川俊夫の音楽は、まさに現在世界が期待するところの日本、また西洋化した日本人が世界にこう受け取られたいと望むところの日本であろう。俳句や、龍安寺の石庭、桂離宮通俗的な禅、シンプルで抽象的なモダニズムの先駆としての日本。その意味において、細川の音楽は見事なまでのオリエンタリズムであるといえる。それにしても、よく比較される武満さんと、何と正反対の本質を持っていることか。
点と線~ドビュッシー&細川俊夫:練習曲集

点と線~ドビュッシー&細川俊夫:練習曲集

  • アーティスト:児玉桃
  • 発売日: 2017/03/08
  • メディア: CD
 
昼食は焼きうどんを作って食う。


珈琲工房ひぐち北一色店。図書館から借りてきた、ジョージ・オーウェル『水晶の精神』読了。エッセイ集。オーウェルは政治的な人であり、わたしは別に政治的人間ではないが、それにしても驚かされる。いまは我々のような一般人がなべて政治的な意見を持たざるを得ない時代であるが、特にいまのような時代こそ、オーウェルのような曇りない、柔軟な精神が参考になる。オーウェルほど、党派的な偏狭から遠い政治的な人間は、いまにあっても稀である。また、オーウェルはいまの知識人によくあるような、シニックな冷笑的態度も取らない。わたしは知識人でないけれども、オーウェルを読んでいると自分の態度が恥ずかしくなってくるところがある。
 もちろんオーウェルは全能者ではないから、時代的限界がないわけではないけれど、それでも公平に見て、ここまで時代的な制約を突破するというのは驚異的ではないか。オーウェルは何か普遍的なものを掴んでいるのであるが、わたしはそれをうまく言語化することができない。本書解説の関曠野氏(わたしの全然知らない人だ)は文学的な見地からオーウェルにおける「人間らしさ」ということを言っているが、このような手垢に塗れた用語はオーウェルにはあまり使いたくないところである。ついでに言っておくと、この解説ではオーウェルが文学者であることを極端に重視しており、一方でオーウェルにおける政治性を低く評価しているが、わたしはこのような態度はオーウェルの真価を見失わせるものであると思う。オーウェルがまず第一に文学者であったのは確かだが、オーウェル自身が、政治的な意図のない自分の文章はいまひとつだ、気に食わないというようなことを書いていた筈だ。政治とよき文学というものの相性がきわめて悪いという事実に対し、オーウェルはひとつの優れた応答をしてみせたのだとわたしは思う。それゆえに、小説に劣らず、いやそれ以上に、オーウェルのエッセイ(評論といってもいいけれど)が重要であると考えられるのだ。
 オーウェルの文学者たるところは、彼の散文の質の高さにあらわれているともわたしは思う。決していわゆる「文学的な」文体ではないが、透明でクリアな、上質なそれだ。政治について語りながら、きわめて静かな印象が与えられる。彼の射程の長い洞察力は、その散文の質と不可分であった筈である。

 
夜。
ゼロの使い魔 双月の騎士』第6話まで見る。