南博&稲葉雅紀『SDGs』

曇時々晴。

午前中、散歩。





















ある場所を歩くといつも、「山河」の破壊ということを思う。土地の精霊たちの断末摩を感じるのがつらい。これが、精霊たちの死に絶えた場所なら、何ということもない。抽象的な知的遊戯に、わたしだっていつまでも耽っていられる。そんな感じで、歩きながら考えていた。我々の感じるモノとは何か。河合隼雄先生は、源氏物語の「悪霊」について問われて、あんなものはあの時代の現実だったと思いますというような(うろ覚えである)ことを仰っていた。モノであろうが客観的実在であろうが、我々の心に働きかけるという点で何もちがいはない。そもそも「客観的実在」(あるいはカントの「物自体」)そのものを我々の感覚器官で直接捉えることはできず、その「客観性」こそが知的操作による「二次的存在」なのである。そこが、我々のかんちがいしているところだ。

ぴえん。

中沢さんがオイディプスと絡めて真っ直ぐに歩けないということについて語っておられたが、わたしも散歩するとき、カメラを片手にふらふら歩いているのです。さっさっと素早く歩いていない。

ごろごろ。BGM


南博&稲葉雅紀『SDGs』読了。少し前に中公新書でも同タイトルの新刊が出たが、わたしはどちらかというと本書の方が面白かったかなあ。中公新書のやつは SDGs そのものを知るのにはよいのだけれど、SDGs すばらしいに終始して、ちょっと楽観的すぎる気がする。本書の共著者の一方である南氏は、日本政府の SDGs 交渉の首席交渉官だった方だそうであるが、その交渉過程というか、SDGs というものの策定過程が明かしてあって、こういうのはきれいごとでは済まないことがよくわかるし、とてもおもしろい話であった。それは各国のエゴがぶつかる生ぐさい話で、しかしまた各国も問題の重要性がわかっているがゆえにまとまったわけである。それくらい、喫緊の課題なわけで、しかももしかしたら SDGs でも対策としてはまったく甘っちょろいのかも知れないというのが本書では隠していない。その点で、グレタ・トゥーンベリ氏などの若いピュアな主張に対しても真摯さが見られるところがある。
 共著者のもう一歩の稲葉氏は NPO の関係者で、本書では日本国内の、特に地方自治体における SDGs に関連する活動がレポートされている。視野の広い、柔軟で真摯で立派な人材が地方に存在し、活躍していることがわかるが、わたしはこういう人たちには引け目があって、ちょっと苦手かなと思ってしまった。ま、これはわたしのクズぶりを示すものであろう。これから、こういう活動で活躍する若い人たちがたくさん出てくるのだろうな、後期おっさんのわたしに何ができるのだろうなと、考えさせられるのだった。まあ、クズのわたしはわたしで別に精一杯やることはある気がする。若い立派な人たちよ、やることなんざたくさんある筈ですよ。
 いつも書いているけれど、かかる話(SDGs)に類する議論は、既にわたしの若い頃からあったし、問題は認識されていた。しかし、大人になったわたしたちは、そうしたことにほぼまったく目を背けてきたというのが実情である。申し訳ないでは済まない話だけれど、わたしもまた何もせず、何もできず、まったく無力であった。愚かしいことであった。

SDGs――危機の時代の羅針盤 (岩波新書)

SDGs――危機の時代の羅針盤 (岩波新書)

本書を読みながら、わたしは以前から考えている、「知られない、人の役に立たない、しかししなければならない」ということをどこかでずっと考えていた。これは決して正義にはならない。パラドックスであり認めることもできないが、しかしひとつの試金石になるのかなとぼんやり思っていた。これからも、これについては考え続けていくだろう。他人にはどうでもよいことですね。