生を言葉で飾り立てるのを止めよ

日曜日。曇。

午前中、甥っ子の勉強を見る。
昼飯はおばあちゃんのご飯。唐揚げでした。
昼からもお勉強。わたしは計算ミスをいっぱいやらかしますよ。

3『コロナ禍の東京を駆ける』登場人物たちのその後(小林美穂子)〈コロナ禍の東京を駆ける〉 | コロナ禍の東京を駆ける | web岩波
「消えたい。心臓が動き続けるのが許せない」「サイレース睡眠導入剤〕を200錠くらい欲しい。1か月に5日間くらい起きてればいい」わたしはここまでではないけれど、わかる気がする。彼ら彼女らに「じゃあ、死ね」といったら、簡単に生死の境目を超えてしまうかも知れない。こんな「クズ」は生きていても価値がないと思われるかも知れないが、当事者もそう思っているのだ。しかし、「生きる価値」とは笑わせる言葉である。世の中に「生きる価値」のある人間が本当に居るのか、そういう考え方にも一理ないとはいえない。わたしは、「生きる価値」という言葉は、個人的にあまり使いたくない。「価値」がなければ、死ななければならないのか? そんなものがあろうがあるまいが、我々は苦痛な生を生きるしかないのだ。
 「若者たちの『連絡しない問題』」。これは非常に興味深い。彼ら彼女らは、誰とも接触したくないのかも知れない。これも、わたしはそれほどではないが、わかる気がする。「甘え」といえばそうかも知れない。しかし、わたしもあなたも、あるいは気づかないだけで、じつは「甘え社会」に生きているのだ。彼ら彼女らにおいて、それが可視化されているにすぎない。「若者たちの『連絡しない問題』」は、先日見たひきこもり死の番組でも、似たような話があった。どれだけ支援にいっても、みずから心を閉ざしてしまい、わざわざ支援を拒む。
 現代日本においてどうしてここまでコミュニケーションがむずかしくなっているのか。「コミュ障」という言葉がふつうにあるくらいだ。どうして、他人と接触したくないのか。わたしは、それを説明する言葉をまだ所有していない。

「人生が生きるに値することは、庶民なら誰でも知っている」とオーウェルは言った。わたしはこれもまた真実だと思う。生が苦痛であっても。仮に庶民がそう思えなくなっているとすれば、何かひどくおかしなことになっている。わたしは思うが、あんまり生を言葉で飾り立てるのを止めよ。だらしなく、テキトーに生きてりゃいいんだよ、我々は。そして、所与の(つまり、我々に否応なく与えられるしかない)世界を関係性において豊かにせよ。あるいは、所与の世界を関係性において貧困化するな。エリートの考えるべきはそれだろ、えらい先生がたよ。