和泉悠『悪い言語哲学入門』

晴。
印象的な夢を見たが、ここには書かない。すべての夢を詳しく覚えていられたらいいのにと思う。
 
一時間散歩。いい天気。途中でカメラの充電残量がなくなってしまった。写真を撮らないと、ずんずん歩けてしまう。随分歩いたな。

わずかに撮ったうち二枚。
 
花粉が飛び始めたらしい。目が痒くなった。
 
 
昼からネッツトヨタで定期点検。待っている間、『文庫本を狙え!』の続きを読む。なかなかおもしろい。わたしには坪内さんのゴシップ好きはあまりないけれど、どちらかというとこれはわたしの欠落だと思う。ゴシップ好きというのは、むしろ人間らしいし、思想なんかよりそういうところこそ大切なのかも知れない。
 
カルコスに寄る。若い人向けと思われる新書本を一冊購入。
駐車場で「佐世保バーガー」のキッチンカーが営業していた。なつかしいな、家族で九州へ行ったとき、佐世保駅で電車の時間を気にしながら買ったのを覚えている。
車のエアコンを AUTO にしているのだが、帰りは軽い冷房が入った。
 
 
和泉悠『悪い言語哲学入門』読了。

(悪口が)「なぜ悪いのか」というと、それは、あるべきでない序列関係・上下関係を作り出したり、維持したりするからです。私たちは事実上、身体能力の違いや貧富の差など、それぞれに異なっています。しかし、理念上、私たちには上も下もなく、お互い平等のはずです。人々をおとしめ、低い位置にランクづける行為は、その理念をないがしろにする行為のため、悪いのです*1。(p.218-219)

これが本書の基盤であるという意味で、アルファにしてオメガであるといっていい。しかし、著者自身のいうとおり、本書ではこの命題そのものについてはまったく議論されていない。という点で、本書は奇妙な本である。本書は「悪口」がなぜ悪いかを説明しているにもかかわらず、それが立脚する命題についてはまったく触れられていないのだから。
 そして、この命題自体、なかなか簡単なものではない。この文章のいうとおり、我々は決して平等ではない。知的能力においても、個々人にはどうしようもない能力差がある。(実際、本書がきちんと「理解」できる人間は、むしろ少数であるとわたしは確信している。)一方で、理念は「人は平等であるべきだ」といい、我々はそれもまた認めざるを得ない。つまり、そこにおいて我々はどうしても矛盾せざるを得ないのであり、この矛盾を無視し、あるいはその矛盾が存在しないかのようにふるまうのは、それこそ誠実な態度ではあるまい。しかし、本書はじつに、その意味で「誠実でない」のである。わたしの本書の読後感はそれに尽きる。
 さらに、なぜ我々は人間をランクづけしたがるのか、ということもある(本書では「ランキング」という言葉が、「悪い」意味で使われている)。それは昔から、そうだったのだろうか。敢ていえば、人は自分を大きく、えらく見せたい。他人にマウントを取りたい。それは特に現代において遍在する「病」といえるほど、よく普及した心性であり、さらにいえば、我々の少なからずが苦しんでいる罠である。そのあたりを放置しておいて、言語哲学分析哲学)が「悪口」の問題を解決してくれると思うのは、かなり楽観的であるようにわたしには思われる。

言葉そのものが「差異化」機能をもつがゆえに、差別は絶対になくならない。わたしはそれが残念なことだとは思うが、しかし真実だとも思っている。言葉はきわめて大切である、ほとんどすべてであるがゆえに、言葉を絶対視してはいけないとも思う。言葉では、リアルの流動性を捕まえることはきわめてむずかしい。ことに、「詩人」のほとんどいなくなってしまった現在においては。

*1:あとから気づいたが、人々を賞賛し、高い位置にランクづける行為もまた、この論理でいくと平等という「その理念」をないがしろにする行為であるといえよう。つまり、人を褒めるのもよくない、と。