鈴木大拙『東洋的な見方』 / 安田峰俊『八九六四 ――「天安門事件」は再び起きるか』

祝日(スポーツの日)。深夜起床。

図書館から借りてきた、鈴木大拙『東洋的な見方』読了。

浅田さんほどの人が結局「マイルドなニヒリズム」というものに陥ったのは、我々はよく考えるべきことである。この「ニヒリズム」は大拙のいう、東洋的な「無」とは全然関係ない。浅田さんのいうのは、むしろ「限定」であり、「有」である。何か「あきらめ」のようなものである。

NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第一番 BWV1002 で、ヴァイオリンはユーディ・メニューインNMLCD)。

曇。
ハイドン弦楽四重奏曲第二十六番 Hob.III:33 で、演奏はハーゲン四重奏団(NMLCD)。■ベートーヴェンの七つのバガテル op.33 で、ピアノはポール・ルイスNML)。

ベートーヴェン交響曲第一番 op.21 で、指揮はベルンハルト・フォルク、ベルリン古楽アカデミーNML)。よい。
Beethoven: Symphonies Nos. 1 & 2 - C.P.E. Bach: Symphonies, Wq 175 & 183/17

Beethoven: Symphonies Nos. 1 & 2 - C.P.E. Bach: Symphonies, Wq 175 & 183/17

  • 発売日: 2020/07/10
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午前中、スーパー。

日本において、コロナ禍での「緊急事態宣言」のあと自殺者数が大幅に減少しているらしい。正確には調べていないが、そうだとすると興味深いことである。つまり、学校や会社に行かなくなったせいとしか考えられないからである。学校や会社において、我々は(あるいは潜在意識的に)大きな「抑圧」をかけられているということだろうか。まあ、当り前といえば当り前な気もするが。

図書館から借りてきた、安田峰俊『八九六四 ――「天安門事件」は再び起きるか』読了。これはおもしろい本だった。著者は現在30代後半の(若い)ルポライターで、「天安門事件」については恐らくリアルタイムでの記憶をもっておられないような気がする。しかし、本書での熱意は何なのか、ちょっと不思議な感じがするくらいだった。政治的な感覚も人間に対する理解力もリアルなもので、いたずらに馬齢を重ねているわたしなどは到底及ばないことを実感し、著者自身に対する興味も感じる。本書は「天安門事件」に関する様々な「関係者」たちへのインタビューで、インタビュイーの本音を相当に引き出した、すぐれたものだと思った。わたしは本書を読んでいて、事件に関するこれまで知ることのなかった事実を知ることもおもしろかったが、つまるところ「人間への興味」のようなものを覚えるところが強かったのは紛れもない。もちろん、1989年の天安門前での(主に学生たちによる)抗議は失敗し、国家当局による虐殺が起きたわけだが、さて、それに対して事件に(主にプロテスト側として)参加した人たちは、いまどうしており、何を考えているのか。
 本書を読んで、つまりは「現在『天安門事件』は中国人の間で(も)風化しているのだ」というのが明らかなことだと感じる。言いかえれば、当局による弾圧と虐殺は、ほぼ完全に成功したのだ。その中で、既に事件を忘れたい参加者もいるし、また絶対に事件を忘れず、いまでも反中国政府的な活動をしている人もいるし、また、何か別の目的をもってよくわからないことをやっている人もいる。そうやっていろいろな人たちがいるが、とにかく現在の共産党独裁政権下で、中国は爆発的な経済発展を遂げ、ついには日本すら追い抜いてしまったという事実が圧倒的に大きい。生活も、かつてとは比べものにならないくらい豊かになり、その帰結として政府に対する不満はどうしても小さくなる。つよいリスクをおかしてまで、反政府活動をする人間が少ないのは当然だ。そしてさらに、いま共産党独裁政権を破壊したところで、中国が「民主化」されることはなく、また別の独裁政権が誕生してしまうにすぎないというのが、本書を読むとひしひしと実感として迫ってくるのである。それくらい、中国は国として「巨大すぎる」のだ。
 それにしても、1989年の天安門前での反政府行動は、明確なビジョンがあってなされたものでもなんでもなく、何となく「気分」のようなもので行われていたというのが実際のところだったのだ。エリートの学生たちが「気分」で突出し、市民も「気分」でエリート学生たちを支持したりしていたわけである。そうした末に、深い思慮もないまま、多くの人々の人生が変わってしまった。本書は非常におもしろいものだったが、読後はリアルで苦いものを感じずにはいられなかった。政治って何なのだろうと、幼稚な感想を持たざるを得ない。

八九六四 「天安門事件」は再び起きるか

八九六四 「天安門事件」は再び起きるか

思えば、「管理」というのはいまの時代にフィットしている。現在の中国での「管理」の実態は大変なものだが、それは民主国家でも他人事ではなく、いずれはすべての国家が中国の後を(多かれ少なかれ)追う可能性が高い。日本も、まったくのところ例外ではない。中国での「管理」の外面性が注目されているが、日本ではそれは「内なる管理」「ソフトな管理」ということであるが。東さんの、「環境管理型権力」というのを思い出してもいいかも知れない。