影書房刊『竹内好集』

雨。
昨晩は竹内好を読んで寝た。
夢。大地に四角い螺旋(?)状の建物が深々と掘り下げられてあって、中心は空洞だ。深いところに、何か重要なもの(あるいは部屋)がある。人がいる。廊下ですれ違う。

NML で音楽を聴く。■バッハの「フーガの技法」 BWV1080 ~ Canon IV alla Duodecima in Contrapunto alla Quinta, Contrapunctus inversus XII a 4 forma recta, Contrapunctus inversus XII a 4 forma inversa, Contrapunctus inversus XIII a 3 forma inversa, Contrapunctus inversus XIII a 3 forma recta で、ピアノはセドリック・ペシャ(NMLCD)。■ベートーヴェン交響曲第二番 op.36 で、指揮はベルンハルト・フォルク、ベルリン古楽アカデミーNMLMP3 DL)。■ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」で、ピアノと指揮はレナード・バーンスタイン、ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団NML)。

 
"trapped, stuck, suffocating" か(参照)。内田樹氏は「狭いところに閉じ込められて」「身動きできなくて」「息ができない」と訳されているが、直訳すると「罠に嵌って」「行き詰まって」「窒息する」かな。若い人たちは、何の罠に嵌って、何に行き詰まって、窒息しているのか。我々大人たちは、どんな世の中を作ってしまったのか。それは、誰にもどうしようもないことだったのか。
 
図書館から借りてきた、影書房刊『竹内好集』読了。以前から竹内好は読んでみたかった。実際に読んでみて戸惑ったが、なかなかおもしろかったことは確かである。しかし、わかったふりはしない。わたしには不透明に感じるところがたくさんある。本書は2005年刊行だから、わたしの感覚だとそんな前のことではない。自分で読んでおいて何だが、いったい誰がいま竹内好を読むというのか。信念の必要な出版なのではないか。

検索してみると、竹内好、思ったよりずっと読まれているな。「論者」みたいな人がネットでもいろいろ言っている。文学じゃなくて、システムとか政治なんだな。しかし、わたしは竹内好のそういう読み方にはあまり興味がないらしい。近代とか、前近代だとか、アジアだとか、土着性とか、後進国性だとか。かしこい人たちがやればよいことだし、まあ実際そうなっているわけだ。いや、わたしだってそういうことを考えるが、もっぱら自分の問題としてである。そういうことを自分を抜きにして考えることこそ、竹内好の拒否したことだったのではないか知らん。

録画しておいた、「まいにち養老先生、ときどきまる」(春を思う)を見る。
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番組で養老先生の本の一節が朗読されていたが、それはこんな話だった。都会人は自分のまわりに意味のあるものしか置かないから、すべてに意味があると思うようになる。世界は意味で満たされる。そうしていくうち、意味のないものを許さないという感覚が生じてくる、と。これはまったくそのとおり。ただ、いまやそれは必ずしも都会だけに限らないとわたしは思うが。田舎でも、意味のないものは端的に「見えない」のである、そういう傾向にある。

つまり、すべては明晰に分節可能だと思っているという誤り。